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現代社会における「情け」とは何か
序論:情報過多の砂漠と、「情け」という名の水
私たちは今、人類史上最も「情報」に満ちた時代を生きている。指先一つで地球の裏側の出来事を知り、瞬時に見知らぬ他者と繋がることができる。この技術的ユートピアは、しかし、同時に「繋がり」の実感を希薄にし、時に人々を深く孤独にするというパラドックスを抱えている。
「情報(Information)」という言葉は、本来、明治期に軍事用語として「敵の情状(ありさま)を報告する」から生まれたとされ、「情」は「状態」や「状況」を指す、いわばドライな記号であった。しかし、「情報とは情けを報じるもの也」という言葉は、この無機質な記号に、あえて「情け(Compassion / Empathy)」という血を通わせる、ラディカルな読み替えを試みるものである。
それは、現代社会が直面する病理、すなわち「情報」は溢れているが「情け」が枯渇しているというアンバランスに対する、鋭い批評であり、同時に処方箋でもある。情報がデータや事実の断片としてのみ流通するならば、それは人々を啓蒙するどころか、分断し、傷つける刃(やいば)となり得る。
本稿は、この「情けを報じる」という視座に立ち、現代社会において「情け」がどのような意味を持ち、どのような形態で実践され得るのかを深く考察するものである。
「情けは人の為ならず」という古くからの諺がある。この言葉が「人に親切にすれば巡り巡って自分に返ってくる」という本来の意味から、「甘やかすとその人のためにならない」という誤用へと傾いていった背景には、「情け」そのものに対する社会的な認識の変化があるだろう。それは、「情け」を非合理的な「同情」や、合理性を欠いた「甘やかし」と見なす、効率主義・成果主義的な風潮の表れかもしれない。
しかし、本稿で論じる「情け」とは、そのような受動的でウェットな感情論ではない。それは、他者と社会を健やかに繋ぎ直すために必須の、極めて「積極的」で「知的」な技術であり、現代を生き抜くための高度な生存戦略であるとさえ言える。
具体的には、現代の「情け」を以下の三つの側面から解き明かしていく。
- 第一に、デジタル・匿名社会において、顔の見えない他者を想像する「共感力」としての情け。
- 第二に、AI・データ社会において、効率や最適化からこぼれ落ちる個を拾い上げる「人間性への配慮」としての情け。
- 第三に、共同体が解体された希薄な社会において、人々を再び繋ぐ「信頼の基盤」としての情け。
これらの考察を通じて、「情けを報じる」ことこそが、情報化社会の「砂漠」に「水」を巡らせる、最も重要で人間的な営みであることを明らかにしたい。
第一章:デジタル・匿名社会における「共感力」としての情け
1-1. 「見えない他者」の出現
かつての「情け」が発動する場面は、多くの場合、物理的な近接性を伴っていた。目の前で転んだ人、道に迷っている旅人、飢えている子供。そこには「顔」と「声」があり、五感を通じて相手の苦痛や困難が直接的に伝わってきた。この場合の「情け」は、「同情」や「哀れみ」といった、ある種反射的な感情の発露であった。
しかし、現代社会、特にインターネットとSNSがインフラとなった社会では、私たちが接する「他者」のあり方が根本的に変容した。私たちは日々、アバターやテキスト、匿名のIDの向こう側にいる「見えない他者」と膨大な量のコミュニケーション(あるいはその一方的な発信)を行っている。
ここでの問題は、五感を通じた身体的なフィードバックが欠如していることだ。画面の向こう側で、自分の放った言葉が相手の表情をどう歪ませ、その心にどのような痛みを与えているのかを、リアルタイムで知覚することができない。物理的な距離と心理的な匿名性は、共感のトリガーを著しく鈍化させる。
1-2. 「刃」としての情報
情報に「情け(=想像力)」が欠如すると、それは容易に「刃」に変わる。現代社会における「情け」の欠如が最も顕著に表れるのが、SNS上で日常的に発生する「炎上」や誹謗中傷のメカニズムである。
匿名の群衆が、ある一つの「正義」や「怒り」の感情に乗り、特定の個人に対して過剰な攻撃を加える。その一人ひとりは、現実世界では温厚な市民であるかもしれない。しかし、「見えない他者」に対しては、現実の対面コミュニケーションでは決して使わないような、残忍で冷酷な言葉を投げつけることができてしまう。
これは、彼らが本質的に邪悪であるからというよりは、「想像力」としての「情け」が機能不全に陥っているからだ。自分の放った石が、相手の人生にどれほどの重傷を負わせるかを想像する知的な工程が、瞬間の高揚感や集団心理によってバイパスされてしまう。
また、フェイクニュースやデマの拡散も、この文脈で捉えられる。人々は、その情報が「面白いか」「感情を刺激するか」で反射的に「共有」ボタンを押す。その情報が孕む虚偽性や悪意が、社会にどのような混乱をもたらし、特定の集団(例えば、特定の国籍の人々や、ある疾病の患者など)をどれほど傷つけるか、という「情け」の回路が働かない。
1-3. 現代における「情け」— 知性としての想像力
したがって、デジタル社会における「情け」とは、感情的な「同情」ではない。それは、顔の見えない相手、遠くにいる他者、自分とは異なる立場の人々に対して、「この情報を発信したらどう感じるだろうか」「この言葉はどのような結果を招くだろうか」と、一歩立ち止まって「想像力を働かせる知性」である。
それは、目の前の相手に手を差し伸べることよりも、ある意味ではるかに困難で、高度な倫理的実践を要求する。なぜなら、そこには直接的な見返りも、感謝の言葉さえもないからだ。
この「知性としての情け」を実践することは、単に「人を傷つけない」という消極的な意味に留まらない。それは、デジタル空間を「人が住める」場所にするための、積極的なインフラ整備である。自分の発言が他者への「刃」ではなく「報い(=良い知らせ)」となるよう、言葉を選ぶ知的な努力こそが、現代の「情け」の第一の形態である。
第二章:AI・データ社会における「人間性」への配慮
2-1. 効率化と最適化の影
現代社会のもう一つの側面は、AIやビッグデータによる徹底した効率化と最適化の追求である。ビジネス、行政、医療、教育に至るまで、あらゆる領域で「データに基づいた意思決定」が主流となりつつある。人間は「消費者」「労働者」「患者」といった「データ・プロファイル」として処理され、その行動は予測され、最適化される。
このシステムは、確かに社会に多大な利便性をもたらした。煩雑な手続きは自動化され、個人の嗜好に合わせたサービスが提供される。しかし、この効率化の網目からは、必ずこぼれ落ちるものがある。それが、データでは測れない「個別の事情」や「数値化できない感情」、すなわち「人間性」そのものである。
かつての「情け」は、「義理人情」や「温情」といった言葉に象徴されるように、非合理的で非効率的な人間関係の「しがらみ」の中で機能していた。上司が部下の家庭の事情を汲んで「温情」を見せる。商店主が馴染み客の「義理」に応えて融通を利かせる。これらは、現代的な経営観点から見れば「非効率」で「不公平」なものかもしれない。
2-2. マニュアルと「血の通った対応」
ご提示の考察にあった、AIチャットボットの例は、この問題を象徴している。私たちが何らかのトラブルでサポートセンターに連絡するとき、最初に迎えてくれるのは、完璧なマニュアルを学習したAIか、あるいはAIのように振る舞うことを要求されるオペレーターである。
彼らの対応は「情報伝達」としては完璧かもしれない。しかし、私たちが本当に求めているのは、単なる「解決策」という情報だけではない。多くの場合、私たちが抱える「焦り」や「不安」「怒り」といった感情を、まず受け止めてほしいのである。
AIチャットボットが「申し訳ありませんが、お客様のケースは規定外です」と応答を打ち切るのに対し、人間のオペレーターが「それは大変でしたね」「ご不便をおかけして申し訳ありません」と、まず感情に寄り添う一言を添える。この「一言」こそが、現代における「情け」である。
それは、マニュアルやアルゴリズムには(現在のところ)実行できない、「個別の事情や感情、体調を汲み取ろうとする姿勢」だ。たとえ最終的な解決策がマニュアル通りであったとしても、そのプロセスに「情け」が介在するか否かで、私たちが受け取る体験の質は天と地ほども異なる。
2-3. 「こぼれ落ちるもの」への眼差し
この「人間性への配慮」としての情けは、あらゆる場面で求められている。
例えば、人事評価において。AIが勤怠データや成果物のキーワードを分析して「生産性が低い」と判定した社員がいるとする。しかし、その背後には、データには表れない、家族の介護、自身の体調不良、あるいはチーム内の人間関係の軋轢といった、深刻な「個別の事情」が隠されているかもしれない。
ここで求められる「情け」とは、データを鵜呑みにせず、その人物と直接対話し、数値の裏にある「人間」の状況を理解しようとする、管理者の「配慮」である。
例えば、行政サービスにおいて。システム上は「申請期限切れ」や「要件不備」でしかない市民のSOSに対し、単に「却下」という「情報」を返すのではなく、「何かお困りの事情はありませんか」と一歩踏み込んで事情を聴取する姿勢。
AIとデータが社会の「平均」や「最適解」を導き出す一方で、人間は、その「平均」からこぼれ落ちる「例外」や「個別性」に光を当てる役割を担う必要がある。効率やデータだけでは救えない人間の弱さ、脆さ、温かさ。それらに寄り添う姿勢こそが、自動化・最適化が進む社会において、人間が担うべき「情け」の重要な役割である。
第三章:希薄化する社会における「信頼」の基盤
3-1. 共同体の解体と「孤独」
都市化、核家族化、そしてデジタル化の進展は、かつて私たちが属していた「共同体」を急速に解体してきた。地縁や血縁、社縁といった、良くも悪くも強固だった「しがらみ」は弱まり、私たちは「個人」として自由になった。しかし、それは同時に、セーフティネットの喪失と「孤独」の増大をもたらした。
かつての「情け」は、村落共同体や長屋といった、濃密な人間関係の中での「助け合い(Mutual Aid)」として機能していた。「お互い様」の精神であり、それはある種の「見返り」を暗黙のうちに期待する、閉じた関係性の中での互酬的な行為であった。
しかし、私たちが今生きているのは、隣人の顔さえ知らない都市型の「匿名社会」である。このような社会では、かつての「お互い様」の論理は機能しづらい。私たちは「情報」は膨大に持っていても、いざという時に頼れる「繋がり」を持たず、「孤独」を感じやすい。
3-2. 「情けは人の為ならず」の再解釈
ここで、冒頭に触れた「情けは人の為ならず」という諺の、本来の意味が重要になってくる。
この言葉が「甘やかしはその人のためにならない」と誤用されるようになった背景には、「情け」をかける行為は、かけた側(Giver)が一方的に損をし、かけられた側(Taker)を堕落させる、という「ゼロサムゲーム」的な人間観があるのではないか。それは、自己責任論が支配する、冷たく、余裕のない社会の空気を反映している。
しかし、本来の意味(巡り巡って自分に返ってくる)が示すのは、もっと長期的で、社会全体を俯瞰した視座である。「情け」とは、直接的な見返りを求めない、利害関係を超えた「無償の親切(Give)」である。
現代社会における「情け」とは、まさにこの「利害関係を超えて、他者に無償で親切にする行為」そのものである。
例えば、駅の階段でベビーカーを運ぶのを手伝う。道で困っている観光客に声をかける。インターネットの知識共有サイトで、見知らぬ人の質問に丁寧に答える。オープンソース・プロジェクトに無償で貢献する。これらはすべて、直接的な見返りを期待しない、現代的な「情け」の実践である。
3-3. 信頼(ソーシャル・キャピタル)の醸成
なぜ、このような「無償のGive」が重要なのか。
それは、一つひとつの行為は小さくとも、それらが社会全体で無数に実践されることで、「この社会はまだ捨てたものではない」「いざという時には誰かが助けてくれるかもしれない」という、漠然とした、しかし強固な「信頼(Trust)」の基盤、すなわち「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」を醸成するからである。
「情け」の行為が社会を循環すること。それを見聞きすること。それによって、人々は不特定多数の他者に対して「この人も、自分と同じように『情け』を行使してくれるかもしれない」という期待を抱くことができる。
これは、制度化された社会保障とは異なる、人々の善意によって編まれた、もう一つの心理的なセーフティネットである。
人間関係が希薄化し、誰もが「孤独」と隣り合わせの現代社会において、「情け」をかけるという行為は、単なる自己満足や利他主義を超え、自分自身が生きるこの社会の「信頼度」を高め、巡り巡って自分自身の「生きやすさ」に貢献するという、極めて合理的で戦略的な「投資」とも言えるのである。
結論:「情けを報じる」ことの現代的意義
本稿では、「情報とは情けを報じるもの也」という示唆に富む命題に基づき、現代社会における「情け」の多層的な意味を考察してきた。
それは、もはや「同情」や「甘やかし」といった古風な情動ではなく、 第一に、顔の見えない他者の痛みを想像する「知的な共感力」であり、 第二に、データと効率の論理からこぼれ落ちる「人間性への配慮」であり、 第三に、希薄化した社会を繋ぎ直し、信頼というセーフティネットを編む「無償のGive」である。
これら三つの要素は、現代社会が抱える病理——デジタルの刃、AIの非人間性、社会の孤独化——に、真っ向から対峙する処方箋である。
単なる事実やデータ(インフォメーション)を乾いたまま伝えるだけでは、社会はますます分断され、殺伐としていくだろう。私たちが「情報」を発信する際、それがSNSへの投稿であれ、業務上の連絡であれ、あるいはAIシステムの設計であれ、そこにこの「情け」を乗せて「報じる(伝える)」こと。
すなわち、受け取る相手への想像力を働かせ、数値化できない人間的な文脈に配慮し、社会の信頼基盤を損なうのではなく豊かにするような形で、情報を取り扱うこと。
それこそが、「血の通ったコミュニケーション」であり、情報化社会が「人間のための社会」であり続けるために、今、最も求められている倫理的な態度である。
「情報とは情けを報じるもの也」。この言葉を、単なる言葉遊びではなく、情報と向き合うすべての現代人が胸に刻むべき指針として、改めて提唱したい。情報技術がいかに進歩しようとも、その情報に「情け」という魂を吹き込むのは、私たち人間自身の知性と意志に他ならないのである。
懸命一生
nickyade@gmail.com
