1884年・国際子午線会議

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 1884年10月、アメリカの首都ワシントンD.C.に世界25カ国から41人の代表が集まりました。彼らの目的は一つ—世界共通の「本初子午線」(経度0度の基準線)を決定することでした。この「国際子午線会議」は、私たちが今日使っている世界時間システムの基礎を築いた歴史的な会議です。黒燕尾服に身を包んだ代表たちが集まった会場は、アメリカ合衆国国務省のレセプションルームでした。当時の写真を見ると、真剣な表情で議論する様子が今でも伝わってきます。この会議場の壁には世界地図が掲げられ、各国の代表はそれを指さしながら熱心に議論を交わしていました。

 この会議が開かれた背景には、世界的な標準時の必要性が高まっていたことがあります。鉄道や電信の発達により、異なる地域間のコミュニケーションと移動が増加し、各地の「地方時」の違いが大きな混乱を引き起こしていました。特に国際的な通信、貿易、航海では、共通の時間基準がないことが深刻な問題となっていたのです。例えば、19世紀後半のアメリカでは、鉄道会社だけでも50以上の異なる地方時が使われ、同じ駅で複数の時計が異なる時刻を示すという混乱が日常的でした。イギリスの『タイムズ』紙は「現代の旅行者にとって最大の不便は、各国や各都市の時間の違いだ」と書いています。ニューヨークとボストンの間でさえ、時間の差があり、ビジネスマンは常に「どこの時間で」約束をするのかを明確にする必要がありました。

 会議の開催を提案したのはアメリカ合衆国でした。当時のチェスター・A・アーサー大統領が1882年に議会に提案し、1883年に正式な招請状が各国に送られました。アメリカが主導したのは、自国も含めて世界中で時間統一の議論が高まっていたからです。アメリカ自身も前年(1883年)に国内を4つの時間帯に分ける標準時制度を導入したばかりでした。この標準時制度は「鉄道時間」とも呼ばれ、当初は鉄道会社が中心となって推進しました。アーサー大統領は招請状の中で「航海、商業、国際通信の便宜のため」に国際的な標準が必要だと強調しています。実際、アメリカ国内では、標準時制度の導入前は「ボストン時間」「ニューヨーク時間」「フィラデルフィア時間」など、各都市が独自の時間を持っていました。これが鉄道の時刻表作成を非常に複雑にしていたのです。

 会議に出席した25カ国には、主要な海洋国家や工業国がほぼすべて含まれていました。イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、日本、中国などが代表を送り、各国の天文学者、外交官、海軍将校、測地学者が活発な議論を交わしました。日本からは在米公使館の高平小五郎書記官が出席しています。高平は後に外務大臣となった人物です。アメリカ代表団は海軍大将C・R・P・ロジャーズを団長とし、主要な科学者や技術者を含む8名の代表で構成されていました。イギリスからは王立天文台長のサー・ジョージ・エアリーの後任であるウィリアム・クリスティが参加しました。興味深いことに、当時のアメリカ海軍観測所所長であったサイモン・ニューカムも代表の一人であり、彼は後に国際的に著名な天文学者となりました。

 会議の主な議題は次の通りでした: 1. 単一の世界本初子午線を採用するべきか 2. その子午線をどこに設定するべきか 3. 経度は東西それぞれ180度まで計測するべきか 4. 万国標準時をどのように定義するべきか 5. 天文学と一般生活で使用する日の始まりをどう定義するべきか

 これらの議題は単なる技術的問題ではなく、文化的・歴史的・政治的な側面も含んでいました。例えば「日の始まり」を午前0時とするか、午後12時とするかは、単なる技術的な問題ではなく、各国の文化や習慣にも関わる問題だったのです。当時はまだ多くの地域で、日の始まりを日没時や日の出時としていました。

 会議は10月1日に開会し、アメリカのフレデリック・フレリングハイセン国務長官が開会の辞を述べました。彼は「この会議の結果は、科学だけでなく、日常生活にも大きな影響を与えるだろう」と述べ、国際協力の重要性を強調しました。議長にはアメリカ代表のロジャーズ海軍大将が選出されました。開会当日、ワシントンD.C.は秋晴れの穏やかな日で、国務省の建物に各国の国旗が掲げられ、会議の重要性を象徴していたと伝えられています。

 最も熱い議論となったのは、本初子午線の位置をどこにするかという問題でした。主な候補としては、グリニッジ(イギリス)、パリ(フランス)、カディス(スペイン)、ベーリング海峡などがありました。フランスはパリ子午線の使用を強く主張し、中立的な子午線として大西洋のアゾレス諸島やベーリング海峡なども提案されました。フランス代表のジャンセン教授は「パリ子午線はヨーロッパ大陸の科学的伝統を代表する」と主張し、グリニッジが単に「海事上の便宜」のために使われているに過ぎないと批判しました。対するイギリス代表のクリスティは「グリニッジはすでに事実上の国際標準として機能している」と反論しました。実際、グリニッジ天文台は1675年にチャールズ2世により設立されて以来、精密な時間計測と航海術の発展に大きく貢献していました。

 議論は時に白熱し、フランス代表団とイギリス代表団の間では冷たい空気が流れることもありました。フランスにとってパリ子午線は単なる科学的基準ではなく、国家の威信をかけた問題だったのです。当時のフランスはナポレオン戦争後の「メートル法」の提唱など、科学的標準の確立において主導的役割を果たしてきた自負がありました。一方、イギリスは世界最大の海洋帝国として、自国の子午線が採用されることが当然と考えていたのです。

 スウェーデン代表のO・リリエフック博士は中立的な立場から、「個々の国の意見や自尊心よりも、科学的・実用的な利点を優先すべき」と述べ、多くの代表の共感を得ました。また、カナダ代表のサンドフォード・フレミングは宇宙的な時間システムを提案し、日常生活と科学研究を分離することを提案しました。彼のビジョンは当時は採用されませんでしたが、後の国際原子時と協定世界時の概念に影響を与えたと言われています。フレミングはもともと鉄道技師であり、カナダ太平洋鉄道の建設に携わった人物でした。彼は実務的な視点から世界標準時の必要性を強く感じていたのです。

 会議中には興味深いエピソードもありました。ある日の会議で、アメリカの若い天文学者が「もし地球が停止して逆回転し始めたら、時間も逆行するのだろうか」という思考実験を提案したところ、会場は一瞬静まり返ったという逸話が残っています。また、会議の合間には各国代表団の晩餐会や社交イベントも開催され、科学的議論だけでなく、文化交流の場ともなりました。当時のワシントンポスト紙は「多様な言語と文化を持つ学者たちが、共通の科学的言語で会話する姿は印象的だ」と報じています。

 会議は約2週間続き、最終的にグリニッジ子午線を国際的な本初子午線として採用する決議が可決されました。賛成22カ国、反対なし、棄権1カ国(サン・ドミンゴ)でした。フランスとブラジルは投票に参加しませんでした。当時のフランスは文化的・科学的な威信をかけてパリ子午線を推していたため、敗北を認めることができなかったのです。フランス代表団は最終票決の場に姿を現さなかったという記録も残っています。これは「紳士的な抗議」の形だったと言われています。

 グリニッジが選ばれた主な理由は次の通りです: – 既に世界の海図や航海暦の大部分(約72%)がグリニッジを基準としていた – 英国の海運と通信網が世界最大だった – 北米とヨーロッパを結ぶ大西洋の中間ではなく、主要な大陸に位置していた方が観測に便利 – グリニッジ天文台の観測データが最も正確で信頼性が高いと広く認められていた – 各国が独自の子午線を主張するなか、既に最も広く使われていたグリニッジを採用することが、最小の混乱で移行できる現実的な選択だった

 当時の海事大国であったイギリスの影響力も大きな要因でした。19世紀後半、世界の商船の約65%がイギリス船籍であり、世界の海上輸送の大部分をイギリスが担っていました。また、世界の海底電信ケーブルの大部分もイギリスによって敷設・管理されていたのです。このような経済的・技術的背景も、グリニッジ子午線が選ばれた重要な理由でした。

 会議ではさらに、グリニッジを通る子午線を世界の経度0度とし、東西に180度まで計測すること、そして世界共通の「標準日」はグリニッジの午前0時に始まるべきことも決議されました。これは今日私たちが使用している「協定世界時(UTC)」の原型となるものでした。当時はまだ「グリニッジ標準時(GMT)」と呼ばれていましたが、この会議の結果、「万国標準時」という概念が公式に認められたのです。グリニッジ天文台の一等天文技師であったジョン・ハリソンの子孫は、後にこの決定について「私の曽祖父が18世紀に始めた仕事が、ようやく世界的に認められた」と述べています。

 この会議は法的拘束力のある条約を結んだわけではなく、各国に勧告を行うにとどまりましたが、その勧告は徐々に世界中で採用されていきました。フランスは長らく抵抗しましたが、1911年には他国との時差を認めつつもグリニッジ基準の時間システムを受け入れました。日本は1888年に明治政府がグリニッジ子午線を正式に採用し、東経135度を中心とした「中央標準時」を導入しました。明治政府にとって、西洋の科学技術を取り入れることは近代化の重要な一環であり、グリニッジ子午線の採用もその一環だったと言えるでしょう。当時の日本の新聞は「世界の文明国の仲間入りを果たす重要な一歩」と報じています。

 国際子午線会議の採択から実際に全世界で標準時が使われるようになるまでには、さらに数十年の時間を要しました。各国は自国の習慣や伝統との調和を図りながら、徐々に新しいシステムを導入していったのです。例えば、イギリス国内でも、全土でグリニッジ標準時を採用するまでには紆余曲折がありました。地方都市の中には「ロンドン時間」の押し付けに反発する動きもあったのです。

 また、標準時の導入に際しては興味深い社会現象も見られました。例えば、時間が「統一」されることで、それまで曖昧だった「遅刻」の概念が厳密になり、社会的規律が強化されたという研究もあります。工場労働者の出勤時間や、学校の始業時間が厳密に管理されるようになったのは、標準時の普及と深く関わっているのです。作家のマーク・トウェインは「鉄道と電信が世界を縮小させたが、標準時はそれを一つの時計で測れるようにした」と評しています。

 国際子午線会議の意義は、単に技術的な標準を決めただけではありません。それは、国家間の対立や競争を乗り越えて、共通の基準を世界的に確立するという、国際協力の新しいモデルを示したのです。特に注目すべきは、会議が科学と外交の交差点で行われたことで、後の国際標準化機構(ISO)や国際電気通信連合(ITU)などの専門機関の先駆けとなりました。国際連合の前身である国際連盟が設立される30年以上前に、既に専門的な国際協力の枠組みが機能していたことは特筆に値します。

 この会議は世界標準時だけでなく、国際時間帯(タイムゾーン)システムの基礎も築きました。地球を24の時間帯に分けるというアイデアは、実はこの会議で正式に採用されたものではありませんでしたが、グリニッジを基準とする決定がタイムゾーンシステムの発展を大きく促進したのです。このシステムを最初に提案したのはカナダのフレミングでしたが、彼の貢献はしばしば忘れられています。彼は会議中に「世界時間」の概念を提唱し、今日のGPSシステムの時間管理にも通じる先見性を持っていました。

 皆さんも考えてみてください。異なる国々が一堂に会し、共通の基準を決定するという行為は、国際協力の素晴らしい例です。世界標準時の確立は、国境を越えた科学と外交の成功物語なのです。今日、私たちがスマートフォンで世界中の時間を瞬時に確認できるのも、GPSナビゲーションで正確な位置を知ることができるのも、こうした先人たちの努力があったからこそなのですよ!そして、異なる意見や立場を持つ人々が対話を通じて共通の基盤を見つけていく過程は、現代のグローバル社会にも大きな示唆を与えているのではないでしょうか?

 国際子午線会議から140年近く経った今、私たちはその恩恵を当たり前のように享受しています。世界のどこにいても、同じ基準で時間を共有できることの便利さを想像してみてください。もし今でも各都市や国が独自の「地方時」を使っていたら、国際会議の開催は混乱を極め、世界経済は大きな効率性を失っているでしょう。私たちが「月曜日の朝9時に会議を開始します」と言うとき、その「9時」が何を意味するのかを長々と説明する必要があるのです!カレンダーやスケジュール管理アプリも、各国の複雑な時間換算を組み込む必要があるでしょう。

 時間は人間が作り出した最も抽象的な概念の一つですが、同時に最も実用的な概念でもあります。1884年の国際子午線会議は、その抽象的な概念を世界中の人々が共有できる形で具体化するという、画期的な一歩だったのです。この会議に参加した代表たちは、自分たちの決定が未来の世界をこれほど大きく変えることになるとは、おそらく想像していなかったでしょう。彼らの議論と決定が、今日の私たちの生活を形作っているのです。これから先の世界でも、共通の時間という概念は、人類の協力と発展の基盤であり続けるでしょう。