ジョン・ハリソンと海洋時計
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家具職人の息子で、正式な教育も受けていない一人の男性が、当時の最高の科学者たちを打ち負かし、世界を変える発明をしました。彼の名はジョン・ハリソン。彼の情熱と忍耐強さの物語は、どんな困難も乗り越えられることを教えてくれます。
ハリソンは1693年にヨークシャーで生まれた自学自習の時計職人でした。父親は大工で、幼いジョンは木工技術の基礎を家庭で学びました。10代の頃には、すでに木製の振り子時計を作るほどの技術を身につけていました。彼は数学や天文学の本を独学で読み、機械工学の原理を深く理解していったのです。
経度の問題に挑むきっかけは、1707年に起きたイギリス艦隊の大惨事だったと言われています。アソシエーション号を含む4隻の軍艦が、経度の誤算によりシリー諸島の岩礁に座礁して約2,000人の船員が命を落としたのです。この悲劇から6年後、経度法懸賞金が設立されました。
当時の王立天文学者や航海士たちは、このような悲劇を防ぐための方法を模索していました。船の経度を正確に知ることができれば、安全な航海が可能になるはずだという考えは広く認識されていましたが、実用的な解決策はありませんでした。大惨事の深刻さを受けて、イギリス議会は1714年に「経度法」を制定し、経度問題を解決する者に最大20,000ポンド(現在の価値で数百万ドル相当)の懸賞金を提供することを決定したのです。
ハリソンは「時計法」による解決策が最も実用的だと信じていました。出発港(例えばロンドン)の正確な時刻を保持する時計を船に持ち込み、現在位置での正午(太陽が最も高い点)の時刻と比較すれば、時差から経度が計算できるのです。1時間の時差は15度の経度差に相当します。例えば、船上の時計がグリニッジ時間の正午を指しているときに、船の位置で太陽が真上にあれば(現地時間の正午)、その場所はグリニッジ子午線から西に0度、つまりグリニッジ子午線上にいることがわかります。
しかし、当時の時計は船の揺れや温度・湿度の変化、塩分のある環境で大きく狂ってしまいました。例えば、気温が1度変化するだけで、当時の時計は1日あたり約10秒も誤差が生じることがありました。大西洋横断のような長期航海では、これが数分、さらには数時間の誤差につながり、位置の特定に致命的な影響を与えていたのです。ハリソンはこの問題を解決するために、全く新しい機構を次々と発明していきました。
ハリソンが経度委員会に初めて接触したのは1730年のことでした。彼は委員会に手紙を送り、海上で使用できる時計の設計図を持っていることを伝えました。委員会は最初、田舎の素人時計職人からの申し出に懐疑的でしたが、ロンドンの著名な時計職人ジョージ・グラハムがハリソンに面会し、彼のアイデアの可能性に感銘を受けました。グラハムは自らの資金でハリソンの初期の研究を支援することになったのです。
彼の最初の挑戦作「H1」は1735年に完成し、重量が34キロもある巨大な装置でした。摩擦を減らすために真鍮と鉄の部品を組み合わせ、温度変化による伸縮を相殺する仕組みを取り入れました。H1には「グラスホッパー脱進機」と呼ばれるハリソン独自の機構が組み込まれており、これにより摩擦を最小限に抑え、潤滑油の必要性も減らしました。また、四つの球状振り子を導入し、船がどのように揺れても正確に時を刻むよう設計されていました。
H1は1736年にポーツマスからリスボンへの航海でテストされました。テスト航海中、船が荒天に遭遇した際、H1は船長のロジャー・ウィルスが予測したより3度も東にいることを示しました。最初、船長はH1の示す位置を信じませんでしたが、翌日陸地が見えたとき、ハリソンの時計が正しかったことが証明されたのです。これは海洋時計の可能性を示す重要な瞬間でした。
次の「H2」は1737年に完成し、さらに改良されました。H2ではより効率的な動力伝達システムを採用し、揺れに対する安定性を向上させました。続く「H3」の開発には19年もの歳月を費やし、様々な革新的機構が導入されました。特に注目すべきは、温度補償用の二金属板の採用です。これは異なる金属の熱膨張率の差を利用して、温度変化による誤差を相殺する画期的な方法でした。しかし、これらはいずれも理想的な解決策ではありませんでした。H3は複雑すぎて信頼性に欠け、実用化には至らなかったのです。
この期間中、ハリソンは何度も挫折しかけました。彼は当時、40代半ばから60代にかけての時間をH3の開発に費やしていましたが、複雑な機構の調整に苦労し、期待通りの結果が得られない日々が続きました。また、経度委員会との関係も決して良好ではなく、委員会からの資金提供は十分ではなかったのです。しかし、彼は諦めることなく、問題の解決策を模索し続けました。
ハリソンはここで発想を転換します。これまでの大型で複雑な機構ではなく、シンプルさを追求した設計に挑戦したのです。ついに1759年、ハリソンは画期的な発明「H4」を完成させました。それは驚くほど小さな、今日のポケットウォッチに似た形の時計でした。直径13センチ、重さ1.45キロという、それまでの試作品とは比較にならないコンパクトさです。H4は40時間のゼンマイ動力で動き、1日あたりの誤差はわずか5秒以内という驚異的な精度を誇りました。この精度は、当時の最高級の陸上用時計をも上回るものでした。
H4の革新的な特徴としては、温度変化に影響されない特殊な「ひげゼンマイ」と「天真」(テンプ)の採用が挙げられます。また、摩擦を減らすために宝石軸受けを数多く採用し、精度と耐久性を高めました。さらに、「レモントワール」と呼ばれる一定の力でゼンマイを巻き上げる機構を導入し、時間の経過によるゼンマイの力の減衰が精度に与える影響を最小化しました。
H4の製作には、当時の最高級の金細工師や宝石職人も関わっていました。ケースは純銀製で、文字盤は白いエナメルに黒い数字が描かれ、針は青く焼き入れされた鋼でした。その美しさは実用性だけでなく芸術性も兼ね備えており、今日では世界最高の時計の一つとして認識されています。
1761年から1762年にかけて、H4はポーツマスからジャマイカのポートロイヤルへの航海でテストされ、5ヶ月の航海の後でも、経度をわずか1.25分(赤道上で約2.3km)の誤差で測定できることが証明されました。これは懸賞金の要件を大幅に上回る精度でした。しかも、ジャマイカへの往路では、予測よりも1日早く到着するという驚異的な航海が実現したのです。
このテスト航海には、ハリソンの息子ウィリアムが同行しました。ハリソン自身は健康上の理由で長期の航海に耐えられなかったため、息子に託したのです。ウィリアムはジャマイカに到着後、現地の時間を天文観測で確認し、H4の示す時刻と比較しました。その結果、わずか5秒の誤差しかないことが判明したのです。これは経度にして1マイル(約1.6km)以内の精度を意味し、懸賞金の条件(30マイル以内の精度)を大幅に上回っていました。
しかし、経度委員会は様々な理由をつけて賞金の全額支払いを渋りました。当時の委員会は天文学者ネビル・マスケリンの影響を強く受けており、彼は「月距離法」という天文学的手法を支持していました。マスケリンはハリソンのテストに同行し、公平であるべき立場にありながら、その後、委員会の判定者として就任するという利益相反が生じていました。
月距離法とは、月と特定の恒星との角度を測定することで時刻を割り出し、経度を計算する方法です。この方法は複雑な数学的計算が必要で、熟練した航海士でも1回の測定に30分以上かかることがありました。また、曇天や荒天では観測自体ができないという大きな欠点がありました。それでも、当時の天文学界はこの方法を支持し、機械式時計よりも「科学的」であると主張していたのです。
ハリソンが直面していたのは、単なる技術的な挑戦だけではなく、当時の科学界の政治的な壁でもありました。経度委員会のメンバーの多くは王立協会(Royal Society)の会員であり、天文学を経度測定の最適な方法とみなしていたのです。彼らにとって、教育も受けていない職人が天文学者たちを打ち負かすという結果は、受け入れがたいものだったでしょう。
ハリソンは何度もテストを要求され、さらにH4の設計図の提出や複製の製作も求められました。委員会は「幸運な偶然」でH4が正確だったのではないかと疑い、別の航路でのテストを要求しました。彼らはハリソンに対して、機械の内部構造を全て公開し、他の時計職人がその設計を複製できるようにすることを条件としました。これは当時の職人にとって、自分の知的財産を全て手放すことを意味する厳しい条件でした。
1764年、H4は再びバルバドスへのテスト航海に送り出されました。このテストでも、H4は39秒の誤差(経度にして約10マイル)という素晴らしい結果を示しました。しかし、委員会はなおも賞金の全額支払いを渋り続けました。彼らは「H4は複雑すぎて実用的ではない」と主張し、より安価で簡単に複製できる設計を要求したのです。
失意のハリソンは、ついに議会に直接訴えました。支援者たちの助けもあり、彼の窮状はジョージ3世の耳に入ります。科学に造詣の深かった国王は、ハリソンのH4を自ら試験し、その精度に感銘を受けました。国王は「私はハリソンに正義を与えよう」と宣言したと伝えられています。ついに1773年、80歳になったハリソンは、議会の特別法により、ほぼ懸賞金に相当する額を受け取ることができました。それは経度委員会から懸賞金としてではなく、彼の功績に対する「褒賞」として支払われたものでした。
この間、ハリソンの発明に触発された時計職人たちが海洋時計の開発を進めていました。特に、トマス・マッジとレビ・ハトンは、ハリソンの設計を参考に、より安価で製造しやすい海洋時計の開発に成功しています。彼らの時計は後に「K1」と呼ばれ、ジェームズ・クック船長の第二次太平洋探検(1772-1775年)で使用されました。クックはこの時計の性能に非常に満足し、「我々の最も信頼できる案内人」と呼んでいます。
ハリソンは賞金を獲得した3年後の1776年、83歳でこの世を去りました。彼は生涯で5台の海洋時計を完成させましたが、最後の「H5」はH4をさらに改良したもので、より小型で信頼性の高いものでした。彼の最後の言葉は「私はやり遂げた」だったと伝えられています。
ハリソンの人生は、ただの発明家の物語ではありません。それは、自分の信念を貫き、逆境に屈しない精神の勝利の物語です。彼は単なる時計職人ではなく、真の革新者でした。ハリソンの粘り強さと創意工夫は、当時の最高の科学者たちを打ち負かし、航海の安全と世界の探検に革命をもたらしたのです。
ハリソンの死後、彼の海洋時計はさらに改良され、19世紀にはより安価で信頼性の高いクロノメーターが広く製造されるようになりました。ジョン・アーノルドやトーマス・アーンショーといった時計職人たちがハリソンの遺産を受け継ぎ、海洋時計の大量生産を可能にしたのです。1825年までに、イギリス海軍の全ての船にクロノメーターが装備されるようになりました。
ハリソンの海洋時計(クロノメーター)は航海の安全性を劇的に向上させ、より正確な地図の作成を可能にしました。18世紀後半から19世紀にかけて、ジェームズ・クックやウィリアム・ブライといった探検家たちは、ハリソンの技術を基にした時計を使って、それまで知られていなかった島々や大陸の正確な位置を記録していきました。また、彼の発明した機構の多くは、現代の高級機械式時計にも受け継がれています。
今日、ハリソンの元の海洋時計は、ロンドンのグリニッジ天文台の海洋博物館に展示されています。H1からH4までの全てが動作可能な状態で保存されており、特にH4は250年以上経った今でも、驚くほど正確に時を刻み続けています。1995年には、ハリソンの設計図に基づいて作られた現代版のH4が製作され、テストで驚くべき精度を示しました。彼の発明の価値は、時代を超えて証明され続けているのです。
さらに重要なことに、ハリソンの海洋時計は、後の世界標準時確立の基礎となる技術的突破口となりました。19世紀には鉄道の発展により時間の標準化が求められるようになり、グリニッジ標準時が世界的に採用されていきます。これは、ハリソンが確立した「時計法」による経度測定の延長線上にある成果と言えるでしょう。
また、ハリソンの発明は現代のナビゲーションシステムの先駆けとなる重要な革新でした。GPSが開発される前の何世紀もの間、船舶はクロノメーターに依存して大洋を航海していました。今日では、原子時計を搭載した人工衛星がGPS信号を送信し、私たちはスマートフォンで瞬時に位置を知ることができますが、その根本的な原理はハリソンが確立した「時間と位置の関係」と何ら変わりません。時間の精密な測定が位置の把握を可能にするという原理は、ハリソンの時代から現代のデジタル時代まで一貫しているのです。
皆さんも覚えておいてください。ハリソンのように、周囲の否定や懐疑にも負けず、自分の信念を貫く勇気があれば、どんな大きな問題も解決できるのです!彼は正式な教育も受けていない素人でありながら、独学と創意工夫によって、当時の最高の科学者たちが解決できなかった問題に挑み、勝利しました。そして彼の粘り強さは、最終的に海洋航行の歴史を変え、世界をより小さく、より安全につなげる大きな一歩となったのです。