テレグラフの登場
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カチカチ…カッタ…カッタ—電信機のキーを操作するオペレーターの指が素早く動きます。1844年、サミュエル・モールスが送った「神は何をなしたもうや」という歴史的な電信メッセージから始まった通信革命は、世界の「時間」の概念を永遠に変えることになりました。
電信(テレグラフ)の登場は、人類の歴史上初めて、情報が物理的な運搬者(手紙や伝令)の速度を超えて伝達できるようになった瞬間でした。それまで手紙がニューヨークからロンドンに届くのに数週間かかっていたのが、電信なら数分で可能になったのです。この変化はあまりにも劇的で、当時の人々は「空間の消滅」と表現しました。
電信網はまず鉄道に沿って敷設されました。鉄道と電信は相互補完的な関係にあり、電信は列車の運行管理を効率化し、鉄道は電信線の敷設と保守を容易にしました。1850年代までに、ヨーロッパと北米の主要都市はすべて電信で結ばれるようになりました。
1858年には大西洋横断海底ケーブルが完成し(最初のケーブルはすぐに故障しましたが)、1866年には恒久的な大西洋ケーブルが敷設されました。これにより、ヨーロッパとアメリカの間でほぼリアルタイムの通信が可能になりました。「電信少年」と呼ばれたオペレーターたちは、モールス信号を使って大陸間の会話を可能にしたのです。
この急速な通信技術の発展は、時間の測定と同期の問題を浮き彫りにしました。異なる都市間で電信でコミュニケーションを取る場合、送信時刻と受信時刻が異なる地方時で表されるため、混乱が生じました。例えば、ニューヨークからシカゴに送られた「午前10時に売却せよ」という指示は、どちらの「午前10時」を指しているのかが不明確でした。
特に金融や商業の分野では、この時間の不一致が大きな問題となりました。株式取引や商品先物取引では、数分の差が大きな損益につながることがあったからです。
この問題を解決するため、電信会社はネットワーク全体で標準時を採用し始めました。例えば、ウェスタン・ユニオン社は1870年代にニューヨーク時間をその全国網の標準として使用していました。また、天文台から主要都市に「時報」を送る電信サービスも始まりました。グリニッジ天文台は1852年から英国内の主要都市に時報信号を送り、正確な時計調整を可能にしていました。
電信の普及により、時間の同期は単なる便宜の問題から、経済的・社会的な必須条件へと変わっていきました。世界中が電信で結ばれるにつれ、各国・各地域の時間を調整する国際的なシステムの必要性が認識されるようになったのです。
モールス信号は、世界初の二進コードとも言われており、現代のデジタル通信の先駆けでした。短点(ドット)と長点(ダッシュ)の組み合わせによって文字や数字を表現するこの方式は、テレグラフのオペレーターたちによって熟練の技として磨かれていきました。熟練したオペレーターは音だけで信号を解読でき、毎分20〜30語の速度で通信することができました。
電信はジャーナリズムにも革命をもたらしました。それまでの新聞は主に地域のニュースを扱っていましたが、電信の登場により、世界各地の出来事をほぼリアルタイムで報道できるようになりました。1848年に創設された「アソシエイテッド・プレス」は、電信を活用して全米の新聞社にニュースを配信する新しいモデルを確立しました。また、1851年にはロイター通信社が欧州で同様のサービスを開始しました。
電信の発明と普及は、外交と国際関係の在り方も変えました。それまでの外交官は現地で大幅な裁量権を持っていましたが、電信により本国政府と迅速に連絡を取れるようになると、中央集権的な外交への移行が進みました。例えば、1870年のフランス・プロイセン戦争では、両国の政府は電信を通じて戦場からの報告をリアルタイムで受け取り、戦略的決定を行いました。
電信網の拡大は、植民地支配の強化にも寄与しました。大英帝国は「赤い電信線」と呼ばれる世界規模の電信網を構築し、植民地の統治を効率化しました。1870年代までに、ロンドンから遠く離れたインドやオーストラリアとも直接通信できるようになり、「太陽の沈まない帝国」の統治体制が強化されたのです。
電信技術は時間測定技術の発展も促進しました。正確な時刻信号を送るために、天文学者たちはより精密な時計の開発に取り組みました。アメリカの天文学者サイモン・ニューカムは、恒星の動きを観測して時刻を決定する精密な方法を開発し、これが後の世界標準時の基礎となりました。
電信の普及と時間の標準化は、一般市民の日常生活も変えていきました。正確な時計が一般家庭にも普及し、「時間厳守」の文化が社会に根付いていきました。駅や公共施設に設置された大時計は、都市生活のシンボルとなり、人々は徐々に「統一された時間」の概念に慣れていったのです。
日本における電信の導入も世界標準時への道のりに大きく貢献しました。明治維新後の1869年(明治2年)、日本初の電信線が東京(当時の江戸)と横浜の間に開設されました。この時、電信の運用を指導したのはイギリス人技師ギルバート。彼の下で日本人技術者たちは急速に技術を習得し、わずか数年で自力での運用が可能になりました。
1871年には工部省内に「電信寮」が設置され、日本全国への電信網の拡大が国家事業として進められました。1873年には東京・大阪間、1874年には東京・青森間、そして1876年には九州までの電信線が完成。これにより、日本の主要都市はすべて電信で結ばれるようになりました。当時の新聞には「雷の速さで言葉を送る不思議な技術」と称され、多くの人々を驚かせました。
電信の登場は、それまで藩ごとに異なっていた日本の時間慣行の統一にも影響を与えました。江戸時代には「不定時法」と呼ばれる、日の出から日没までを6等分する時間システムが使われていましたが、電信の運用には正確で統一された時間が必要でした。1873年(明治6年)に日本政府は太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、同時に定時法への移行を進めました。1888年(明治21年)には日本標準時(東経135度を基準)が正式に採用され、電信を通じて全国に正確な時刻が伝えられるようになったのです。
大陸間の通信が電信で結ばれたことで、各国間の具体的な時間の差が実感を伴って認識されるようになりました。例えば、ロンドンの取引所が開いている時間はニューヨークではまだ明け方であり、ロンドンの取引が終わる頃にニューヨークの取引が始まることが明確になりました。このような世界各地の「時間の関係性」の理解は、グローバルな経済活動や外交活動の基盤となりました。
テレグラフ技術の発展は多くの関連技術も生み出しました。複数の信号を同時に送信する多重通信技術や、自動送受信機、さらには印刷電信機(テレタイプ)の開発です。特に1874年にフランスのエミール・ボードーが発明した「ボードー式電信機」は、一本の回線で最大6つの信号を同時に送信できる画期的なものでした。これらの技術革新により、世界の通信処理能力は飛躍的に向上し、より多くの情報をより速く交換できるようになったのです。
学術の世界でも、電信の登場は大きな変化をもたらしました。天文学者たちは、観測データの迅速な共有により、新たな天体現象の発見や検証を効率化しました。例えば、1846年の海王星発見の際には、ベルリンからの発見の知らせが電信によってヨーロッパ中に伝えられ、複数の天文台が確認観測を行うことができました。また、天気予報の分野でも、広域からの気象データをリアルタイムで収集することで、精度の高い予報が可能になりました。
しかし電信の普及は、新たな格差も生み出しました。「情報格差」の始まりとも言えるでしょう。電信線が通っている地域と通っていない地域の間には、情報の鮮度と量に大きな差が生じました。企業や政府は電信線のある場所に集中し、電信網から外れた地域は経済的・政治的に周縁化される傾向がありました。また、電信の利用料金は一般市民にとって高額で、情報通信の恩恵は当初、富裕層や大企業、政府機関に限られていました。
皆さんも考えてみてください。今日ではインターネットで世界中と瞬時につながることができますが、これは電信から始まった長い技術革新の旅の延長線上にあるのです。そして時間の同期という課題は、通信技術の発展とともに常に進化してきました。現代のコンピュータネットワークですら、精密な時間同期が不可欠なのですよ!デジタル時代の私たちが使う「オンライン」や「接続する」といった言葉は、実は電信時代から受け継がれてきた遺産なのです。テレグラフのキーが刻んだリズムは、今も私たちのデジタル生活の中に脈打っているのかもしれませんね。