加齢とともに変化する思考システムのバランス
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人間の思考プロセスを司る「速い思考(システム1)」と「遅い思考(システム2)」の二重システムは、生涯を通じて一定ではありません。特に加齢は、この二つの思考システムのバランスに顕著な影響を及ぼすことが、神経科学や認知心理学の研究によって明らかになっています。
この変化の核心にあるのが、脳の最前部に位置する前頭前野(Prefrontal Cortex)の機能です。前頭前野は、推論、計画、意思決定、問題解決、感情の抑制、ワーキングメモリといった高度な認知機能、すなわち「遅い思考」の中核を担う領域です。しかし、驚くべきことに、その機能は20代後半から30代にかけてピークを迎え、その後は加齢とともに徐々に、しかし確実に衰えていくことが知られています。
前頭前野の機能低下は、注意力散漫、衝動性の増加、新しい情報の学習困難、複雑な問題解決能力の低下など、多岐にわたる認知制御能力の変化として現れます。これらの機能が衰えることで、意識的な努力を要する「遅い思考」を活性化させることが難しくなり、自然と労力の少ない「速い思考」に頼りがちになるのです。
「若い頃であれば論理的に検討できた選択肢の比較や、新しい情報の学習に時間がかかるようになります。言い換えれば、年齢を重ねるほど『遅い思考』を使うことが難しくなり、より単純で直感的な『速い思考』の判断に頼りがちになるのです」と、ある認知神経科学者は指摘します。これは、高齢者が新しいテクノロジーや複雑な金融商品を避け、慣れ親しんだ選択肢に固執する傾向があることの生物学的根拠の一つとされています。
前頭前野の機能低下
加齢に伴い、高度な認知機能と「遅い思考」を支える前頭前野の神経細胞の減少や神経伝達物質の変化が進み、その機能が徐々に弱まります。特に意思決定や計画立案に影響。
認知制御能力の変化
前頭前野の機能低下は、注意の持続力、抑制機能、ワーキングメモリ、認知的柔軟性といった認知制御能力に影響を及ぼします。これにより、複雑な情報処理や複数の選択肢の比較検討が困難になります。
慣れた選択への依存
新しい情報や複雑な問題を分析するよりも、過去の経験や習慣に基づいた直感的で自動的な「速い思考」に頼る傾向が強まります。これはエネルギー消費を抑える脳の適応反応でもあります。
同じブランドの継続的選択
結果として、情報処理の負荷が少ない「いつものブランド」や「慣れ親しんだ製品」を選び続ける傾向がさらに強化されていきます。これは単なる保守性ではなく、脳の効率的な情報処理戦略の一部です。
例えば、日本の消費者を対象とした調査では、高齢者ほど馴染みのあるスーパーやドラッグストアでの買い物を好み、新しい店舗やブランドへの移行に躊躇する傾向が強いことが示されています。これは、膨大な商品の中から新しい情報を処理し、最適な選択を行うという「遅い思考」の負担を避けたいという無意識の欲求の現れと言えます。
つまり、年長者が新しい物ではなく慣れ親しんだ物を選ぶ傾向があるのは、単なる性格や気分の問題ではありません。前頭前野を使ってしっかり考えることがどんどん億劫になり、情報処理の「処理流暢性(Processing Fluency)」が高い慣れ親しんだ行動からスイッチしなくなっていった結果であるともいえるのです。一度形成された習慣的な購買行動は、システム1によって自動的に実行されるため、それを変えるには相当な認知的労力が必要となります。
この知見は、世界的に高齢化が進む現代社会において、企業が商品やサービスの設計、マーケティング戦略を考える上で極めて重要な示唆を与えています。例えば、日本の「団塊の世代」のような、高い購買力を持つ高齢層にアプローチするには、彼らの認知特性を理解した上で、安心感や簡便性を前面に出したコミュニケーションが求められます。次の章では、こうした脳の傾向に対して、マーケティングがどのようにアプローチしているかを見ていきましょう。