「速い思考」と「遅い思考」の二重システム
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ノーベル経済学賞受賞者であり、行動経済学の権威であるダニエル・カーネマンは、その著書『ファスト&スロー』の中で、人間の思考プロセスを根底から解き明かす「二重プロセス理論」を提唱しました。これは、私たちの意思決定が「速い思考(システム1)」と「遅い思考(システム2)」という二つの異なるシステムによって行われているというものです。この革新的な概念は、私たちが慣れ親しんだブランドや商品を選びがちな行動の心理的なメカニズムを深く理解する上で不可欠です。
速い思考(システム1)の深化
「速い思考(システム1)」は、ほとんど意識的な努力を必要とせず、瞬間的に働く直感的で自動的な思考システムです。これは、私たちが日々の生活で直面する膨大な情報のほとんどを処理し、迅速な判断を下すために最適化されています。例えば、運転中に危険を察知して急ブレーキを踏む、友人から投げかけられた簡単な質問に即座に答える、あるいはスーパーで棚に並んだ見慣れたパッケージの牛乳を迷わずカゴに入れるといった行動は、すべてシステム1の働きによるものです。システム1は、パターン認識、連想記憶、そして感情的な反応に基づいています。効率性を追求するため、しばしば「ヒューリスティクス(経験則)」を用いて意思決定を行いますが、これが認知バイアス(思考の偏り)の原因となることもあります。私たちの脳が、以前の章で触れた「処理流暢性」を追求する本能は、このシステム1と深く結びついており、なじみのあるものや簡単に処理できるものを好む傾向に直結しています。
遅い思考(システム2)の役割
一方、「遅い思考(システム2)」は、より意識的で、熟慮と論理的な分析を必要とする思考システムです。システム1が直感的な「自動操縦」であるのに対し、システム2は「手動操縦」に例えられます。新しいスマートフォンを購入する際に、複数のモデルのスペックを比較検討したり、住宅ローンを組むために複雑な金利計算を行ったり、初めて訪れる場所への最適なルートを地図で詳細に調べたりする行動は、システム2が関与しています。このシステムは、注意深く情報を分析し、問題解決や複雑な計算、論理的な推論を行う際に活用されます。システム2の大きな特徴は、その「努力の必要性」にあります。使用するたびに精神的なエネルギーを消費し、疲労を伴うため、私たちの脳は可能な限りシステム1に処理を委ねようとします。例えば、一日の終わりに複雑な決断を下すのが億劫に感じるのは、システム2の「認知資源」が枯渇している状態と言えます。
私たちは普段、この2つの思考システムを状況に応じて巧みに切り替えながら生活しています。しかし、重要なのは、「遅い思考(システム2)」を使うには意識的な努力と、それなりの認知資源(エネルギー)が必要であるという点です。例えば、仕事で重要なプレゼンテーション資料を作成する際や、新しい投資案件を検討する際には、多大な精神的労力と集中力が求められます。そのため、日常的な買い物のような頻繁に行う判断や、緊急性を要する状況では、脳はエネルギー効率の良い「速い思考(システム1)」に頼りがちになります。
このシステム1の働きは非常に強力であり、私たちが意識しないうちに意思決定に影響を与えています。そのため、私たちは自分がなぜその商品を選んだのか、明確に説明できないことも少なくありません。「なんとなく良さそうだったから」「いつも使っているものだから」という理由の裏には、このシステム1による無意識の処理が大きく関わっているのです。特に日本では、長年愛用されている「定番商品」や「ロングセラーブランド」が多数存在しますが、これは消費者が新奇性よりも慣れ親しんだものに安心感を抱き、システム1の処理負荷を軽減したいという心理が強く働いていることの表れとも言えます。
カーネマンの研究は、人間が必ずしも合理的な意思決定を行うわけではないことを示し、行動経済学の発展に多大な貢献をしました。マーケティングや消費者行動の研究においても、この二重システムは重要なフレームワークとして活用されています。例えば、商品のパッケージデザインや広告メッセージは、システム1に直感的に訴えかけるように設計される一方で、高価な商品やサービスでは、システム2が納得するような論理的なメリットやデータが提示される傾向にあります。次の章では、年齢を重ねるにつれてこの二つの思考システムのバランスがどのように変化していくのか、そしてそれが消費行動にどのような影響を与えるのかについて、さらに詳しく探ります。