脳のエネルギー効率を追求する「処理流暢性」

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 私たちが「慣れ親しんだ物を選ぶ」という行動の背景には、「処理流暢性(processing fluency)」と呼ばれる脳の仕組みが深く関わっています。これは、情報処理にかかる認知的労力、すなわち「認知負荷」をできる限り低減したいという脳の本能的な欲求から生まれるものです。

 処理流暢性には、主に二つの側面があります。一つは「知覚流暢性(perceptual fluency)」で、これは特定の情報(文字、画像、音など)をどれだけ容易に認識・処理できるかを示します。例えば、見慣れたフォントや配置のテキストは、初めて見る複雑なデザインのテキストよりも処理流暢性が高いと感じられます。もう一つは「概念流暢性(conceptual fluency)」で、これは情報の意味や概念をどれだけ容易に理解・統合できるかに関わります。既に知っているブランドや製品カテゴリーの知識は、新しい概念を学ぶよりも概念流暢性が高く、思考の労力を減らすことができます。

脳のエネルギー消費と最適化戦略

 ヒトの脳は、身体に占める質量がわずか2〜3%であるにもかかわらず、全エネルギーのおよそ20%(安静時)を消費するという、非常に「運用コスト」が高い臓器です。これは特にグルコース(ブドウ糖)を大量に消費するため、脳は常に効率的な情報処理を求め、無駄なエネルギー消費を抑えようとします。このエネルギー最適化のメカニズムが、処理流暢性を高める方向へと私たちの認知システムを導いているのです。

 生物として、私たちには無駄なエネルギーを抑え、温存することで生存可能性を高めたいという原始時代からの本能があります。複雑な状況下で迅速かつ効率的に意思決定を行う必要があったため、脳は情報を瞬時に処理し、エネルギー消費を最小限に抑えるためのショートカット(ヒューリスティック)を進化させてきました。この本能は現代社会においても変わらず機能しており、日々の消費行動や意思決定に大きな影響を与えています。

 このアイスバーグ図が示すように、私たちの意思決定(意識的選択)は表面的な部分に過ぎず、その深層には「注意とワーキングメモリ」による情報の扱い、さらに無意識の領域で働く「処理流暢性」や「自動化された反応」が影響を与えています。そして、その最も根源にあるのが、エネルギーを温存し、生存を有利にするための「生存本能」です。認知心理学の多くの研究(例: Daniel Kahnemanの「ファスト&スロー」におけるシステム1とシステム2の議論)が、この無意識的・直感的な情報処理が、意識的な思考よりもはるかに私たちの行動に大きな影響を与えることを示唆しています。

 脳が情報処理にかける労力を「認知負荷(cognitive load)」と呼びますが、私たちはこの認知負荷が高いものをなるべく避ける傾向があります。認知負荷には、課題そのものの難しさからくる「内在的認知負荷」、課題とは関係ない余計な情報によって生じる「外的認知負荷」、そして学習に役立つ「本来的認知負荷」がありますが、特に内在的・外的認知負荷が高い状況では、脳はエネルギー節約モードに入り、思考を簡略化しようとします。そうしたとき、自然と選ばれるのが「処理流暢性の高いもの=慣れ親しんだもの」なのです。

「非常に簡単に言うと、わかりやすいものが好きで、複雑なものが嫌いとなります。脳は面倒くさがりなのです」

 この脳の働きは、私たちの祖先が生存競争を勝ち抜くために発達させてきた機能であり、現代社会においても私たちの行動選択に大きな影響を与え続けています。例えば、新しいデジタルサービスの導入時や、複数の商品オプションを比較検討する場面で、消費者はより理解しやすく、使い慣れた方を選ぶ傾向にあります。これは、見た目がシンプルで直感的な操作ができるアプリが選ばれやすい現象や、長年愛用されている日用品ブランドが根強い人気を保つ現象にも通じます。次の章では、脳の思考システムについてさらに詳しく見ていきましょう。