各国の標準時への工夫
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19世紀に入ると、世界の主要国はそれぞれ独自の「国家標準時」を確立し始めました。各国がどのように時間の統一に取り組んだのか、その創意工夫に満ちた物語を見てみましょう!
フランスでは、パリ天文台を通る子午線を基準とした「パリ中央時」が採用されました。フランス革命期には、1日を10時間、1時間を100分、1分を100秒とする「十進時」の導入も試みられましたが、一般には受け入れられず、すぐに従来の24時間制に戻りました。この実験は1793年11月から1795年4月まで続きましたが、時計職人たちが新しい時計の製造に苦労したこともあり、失敗に終わりました。しかし、フランスは長い間、パリ時間を基準とすることにこだわり、のちの国際会議でもグリニッジではなくパリを世界の時間の中心にするよう主張しました。パリの科学者たちは「パリ子午線は科学的に最も正確に測定されている」と主張し、国家の威信をかけてこの問題に取り組んだのです。
アメリカ合衆国は特に複雑な状況でした。急速に拡大する国土が東西に4,500キロメートル以上も広がっていたため、多数の「地方時」が存在していました。ボストンとシカゴでは約1時間、ニューヨークとサンフランシスコでは約3時間の時差がありました。当初、各都市は独自の地方時を使い、特に鉄道会社はそれぞれの「鉄道時間」を設定していました。例えば、ピッツバーグ駅には6つの異なる時計が掛けられ、各鉄道会社の時間を表示していたと言われています!この混乱は旅行者だけでなく、ビジネスにも深刻な問題を引き起こしました。ある町で締結された契約の「正午」が別の町では「午前11時」を意味するため、法的な争いが頻発していたのです。1883年に鉄道会社が主導して標準時帯制度を導入するまで、アメリカには実に53種類の「公式時間」が存在していたという記録もあります。
ロシア帝国も広大な国土を持ち、東西で約10時間もの時差がありました。しかし、ロシアは中央集権的な国家だったため、1800年代前半からサンクトペテルブルグ(後にモスクワ)の時間を全国の標準時として使用していました。これは鉄道や電信の運営には便利でしたが、極東地域では日中の活動時間が実際の日照時間と大きく異なるという問題がありました。極東のウラジオストクでは、冬の朝9時でもまだ暗く、午後3時には暗くなるという不便な状況が生じていました。しかし、政府の官僚たちは「国家の一体性のため」という理由で、長らく単一時間制を維持したのです。多言語、多民族国家だったロシア帝国にとって、統一された時間は国家統合の象徴的手段でもあったのです。時間帯制度が正式に導入されたのは、革命後の1919年になってからでした。
英国では、1840年代から鉄道会社がグリニッジ標準時(GMT)を採用し始め、1880年までに「鉄道時間」としてほぼ全国に普及していました。1880年には「標準時法」が成立し、GMTが法的に英国全土の標準時となりました。英国の場合、国土が東西に狭いため、単一の時間帯で大きな問題はありませんでした。しかし、地方時と標準時の移行には文化的な抵抗もありました。例えば、オックスフォード大学は「オックスフォード時間」(グリニッジより5分遅れ)を1890年まで公式に維持していました。また、スコットランドの一部地域では「私たちはロンドンから指図される必要はない」として、地方時の使用を続ける動きもありました。教会の鐘の時間を変えることにも宗教的な抵抗があり、「神の定めた時間を人間が変えるべきではない」という主張も見られました。
インドでは、イギリス植民地時代に特に複雑な時間状況が生まれていました。東西に広がる亜大陸では、地方によって約1時間40分もの時差がありました。1850年代には、鉄道運行のためにカルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)、マドラス(現チェンナイ)の三大都市がそれぞれ独自の標準時を設定していました。これは「ボンベイ時間」「マドラス時間」などと呼ばれ、行政や貿易の場面で混乱を招いていました。1905年に植民地政府はついに東経82.5度を基準とした「インド標準時」を定め、全土で単一の時間を使用するようになりました。この決定には、「広大な国土を単一の時間で結ぶことで帝国の一体性を強調する」という政治的意図もあったと言われています。
日本でも明治維新後、近代化の一環として時間の統一が進められました。1888年には「中央標準時」が制定され、東経135度(明石付近)を基準とした時間が全国で使用されるようになりました。それまでの日本は「不定時法」と呼ばれる、日の出から日没までを6等分する時間システムを使用していたため、これは大きな文化的変革でもありました。季節によって1時の長さが変わる不定時法から、一定の長さの時間へと移行するのには多くの混乱がありました。例えば、工場の労働者は「昼過ぎ」ではなく「午後1時」という新しい時間概念に慣れる必要がありました。明治政府は学校教育を通じて新しい時間観念を広め、公共の場所に時計を設置するなど、様々な啓蒙活動を行いました。伝統的な「辰の刻」「未の刻」といった時刻表現から、「午前8時」「午後2時」という西洋式表現への移行は、日本社会の西洋化と近代化の象徴的な出来事でした。
ドイツでは、1893年に全国統一の「中央ヨーロッパ時間」を導入しました。それまでは各州や都市が独自の時間を使用していましたが、新しく統一されたドイツ帝国の政治的一体性を高めるために時間の統一が進められました。プロイセンが主導したこの改革は、国家の効率性と近代性を示す象徴的な政策でした。ドイツ国内の鉄道網は欧州で最も発達していた一方で、各地方の時間差によるスケジュール混乱は深刻な問題でした。統一時間の導入は、「科学と技術による国家統合」という当時のドイツの国家理念を反映していたのです。
こうした各国の取り組みは、後の世界標準時の確立に向けた重要なステップとなりました。各国が独自の国家標準時を持つようになったことで、世界的な時間の調整を議論する必要性が高まったのです。1884年にワシントンD.C.で開催された国際子午線会議は、このような背景から実現しました。この会議では、グリニッジ子午線を世界の基準(0度)とすることが決定され、24の時間帯に世界を分ける現在のシステムの基礎が築かれました。興味深いことに、フランスはこの決定に強く反対し、会議の決議に投票しませんでした。フランスが公式にグリニッジ時間を基準とした国際時間システムを受け入れたのは、それから数十年後のことでした。
時間の標準化は単なる技術的な問題ではなく、国家のアイデンティティや権力、文化的価値観とも深く結びついていました。どの子午線を「0度」とするかという議論は、19世紀の帝国主義競争と科学的優位性を巡る国際政治の舞台でもあったのです。
皆さんも考えてみてください。今日私たちが当たり前のように使っているタイムゾーンのシステムは、多くの国々の試行錯誤と妥協の産物なのです。異なる文化や価値観を持つ国々が協力して作り上げた世界標準時は、国際協力の素晴らしい実例と言えるでしょう!それは単に時計の針を合わせる作業ではなく、世界を結びつける共通言語を作り出す壮大なプロジェクトだったのです。現代のグローバル社会での国際会議や国境を越えたビジネス、インターネット上のリアルタイムコミュニケーションが可能になったのも、こうした先人たちの努力があったからこそなのです。