日本の標準時の歴史
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東京・小金井市にあるNICT(情報通信研究機構)の標準時管理室。ここでは最新の原子時計が日本の「今」を刻んでいます。しかし、日本人と時間の関係は、江戸時代の不定時法から明治の近代化、そして現代のハイテク時計まで、実に興味深い変遷を遂げてきました。日本における標準時の歴史を一緒に探検してみましょう!
日本の伝統的な時間制度は「不定時法」と呼ばれるもので、日の出から日没までを6等分した「昼六つ時」と、日没から日の出までを6等分した「夜六つ時」に分けていました。これは太陽の動きに合わせた自然な時間感覚でしたが、季節によって「一つ時」の長さが変わるという特徴がありました。例えば、夏の昼の「一つ時」は約2時間20分、冬の昼の「一つ時」は約1時間40分でした。時刻は「九つ」から始まり、「八つ」「七つ」「六つ」「五つ」「四つ」と進み、また「九つ」に戻るという逆順の数え方でした。
時を告げる手段としては、各地の城や寺院の太鼓や鐘が使われていました。特に江戸では、大名屋敷などに設置された「時の鐘」が市民の生活リズムを規定していました。これらの鐘は、季節ごとに異なる間隔で打たれていたのです。また、富裕層や商家では和時計(天符)が使われ、これには季節によって文字盤の目盛りを調整できる工夫が施されていました。
江戸時代の和時計には「尾張時計」や「枕時計」など様々な種類があり、職人の高度な技術が注がれていました。和時計の機構は西洋の機械式時計を基にしながらも、不定時法に対応するために天輪(てんりん)と呼ばれる調整装置を備えていたのが特徴です。季節の変わり目には、熟練した時計師が各家を訪れて天輪を調整し、正確な不定時法の時刻を刻めるようにしていました。この高度な技術は、後の明治時代に日本の精密機械工業の礎となったのです。
また、庶民の間では「漏刻(ろうこく)」という水時計や「香時計」も利用されていました。香時計は線香の燃える速度が一定であることを利用したもので、線香が燃え尽きる時間から現在時刻を知る仕組みでした。これは火事の危険性が高かった江戸の町でも比較的安全に使えるため、多くの家庭で普及していました。
明治維新以降、近代化の一環として西洋式の時間制度の導入が検討されるようになりました。1872年(明治5年)12月、太政官布告により西洋式の24時間制(定時法)が採用されることになりました。しかし、この時点では各地方の正午は太陽が南中する時刻に基づいていたため、実質的には各地で異なる「地方時」が使われていました。例えば、東京と大阪の間では約20分の時差がありました。
この太政官布告は「改暦」として知られ、同時に太陽暦(グレゴリオ暦)の採用も宣言されました。明治5年12月3日の翌日が明治6年1月1日となり、一気に新しい暦と時間制度が始まったのです。これにより、それまでの旧暦から新暦への移行だけでなく、不定時法から定時法への転換も同時に行われました。この急激な変化に対応するため、政府は全国の小学校などに西洋式の時計を配布し、新しい時間制度の教育に力を入れました。
統一された「日本標準時」が法的に制定されたのは1886年(明治19年)のことです。内務省告示第22号により、「中央標準時」として東経135度(明石市付近)の地方平均太陽時を全国の標準とすることが決められました。この経度は、日本列島のほぼ中央に位置し、GMTから正確に9時間進んでいるという便宜的な理由で選ばれました。興味深いことに、当初は「中央標準時」という名称でしたが、後に「日本標準時」と呼ばれるようになりました。
日本標準時の制定は、1884年にワシントンで開催された国際子午線会議の決議を受けたものでした。この会議では、世界の標準時の基準としてイギリスのグリニッジ天文台を通る子午線(経度0度)が採用され、世界を24の時間帯に分ける現代の時間制度の基礎が確立されました。日本からは外務省の田辺太一が全権委員として参加し、帰国後の報告が日本標準時制定の直接のきっかけとなったのです。
中央標準時の基準点となったのは、東京・麻布台にあった海軍観象台(後の東京天文台)でした。ここでは毎日、天体観測によって正確な時刻を決定し、正午には時報が発せられました。当初は旗を上げる「旗信号」でしたが、すぐに大砲による「午砲」に変わり、市民は「どーん」という音で正午を知ることができました。また、鉄道や郵便などの公共機関には電信によって時報が送られ、駅の時計などが調整されました。
1888年からは東京・日比谷にあった東京気象台の屋上に「時報球」が設置され、正午に球が落下する仕組みが導入されました。これは視覚的な時報として市民に親しまれると同時に、船舶向けの時報としても機能し、東京湾に停泊する船の航海時計の調整に使われていました。この時報球は1923年の関東大震災で被災するまで、35年間にわたって正確な時を伝え続けました。
また、1912年(明治45年)からは、逓信省電話局により「時報サービス」が開始されました。電話で「117」をダイヤルすると、正確な時刻を音声で聞くことができるサービスです。このサービスは現在もNTTにより継続されており、100年以上にわたって日本人の時間生活を支え続けています。
社会への浸透は徐々に進みました。都市部では比較的早く定着しましたが、農村部では自然のリズムに従った生活が続き、完全な普及には数十年を要しました。不定時法から定時法への移行は、単なる技術的な変更ではなく、日本人の時間感覚そのものの変革でもあったのです。
この時間感覚の変革は、文学や芸術にも反映されています。夏目漱石の『三四郎』(1908年)では、主人公が地方から東京に出てきて、都会の時間の速さに戸惑う様子が描かれています。また、俳句においても季語や自然の移ろいを重視する伝統的な感覚と、時計による正確な時間との間の緊張関係が新たなテーマとなりました。こうした文化的な側面からも、日本の近代化における時間革命の意義を読み取ることができます。
第二次世界大戦中の1939年から1951年までは、夏時間(サマータイム)が採用されました。これは日の出の早い夏季に時計を1時間進め、日照時間を有効活用するための措置でした。特に、占領期(1948-1951年)にはGHQの指示により強制的に実施されました。しかし、農業従事者からの反対や生活リズムの混乱などを理由に、1952年以降は再び導入されていません。
戦時中の1942年から1945年までは、「戦時標準時」として通常の日本標準時より1時間進んだ時刻が使われていました。これはいわば恒久的なサマータイムであり、エネルギー節約と生産効率向上が目的でした。終戦後の1945年9月に元の時間に戻されましたが、この短期間の変更も日本人の生活に少なからぬ混乱をもたらしました。
戦後の1949年に、電波による時報放送「JJY」が開始されました。これは短波および長波による標準電波放送で、正確な時刻情報を全国に配信するものでした。1999年からは福島県と佐賀県の標準電波送信所から長波による連続送信が始まり、現在の電波時計のシステムの基盤となりました。
JJYの標準電波は、40kHz(福島)と60kHz(佐賀)の2つの周波数で送信されており、電波時計はこれを受信して自動的に正確な時刻に調整されます。各送信所は出力50kWの大型送信機を使用し、日本全国をカバーしています。電波時計の普及により、一般家庭でも原子時計の精度に基づいた正確な時刻を知ることができるようになりました。これは、和時計から機械式時計、そして電波時計へと進化してきた日本の時計技術の集大成とも言えるでしょう。
日本の標準時管理は、1955年に設立された電波研究所(現在のNICT)に移管されました。1976年には日本初のセシウム原子時計が運用を開始し、時刻精度は飛躍的に向上しました。現在、NICTは約20台の原子時計を運用し、これらの平均値から「日本標準時」を生成しています。その精度は16桁(100兆分の1)に達し、国際原子時との差も数ナノ秒以内に保たれています。
NICTでは、セシウム原子時計に加えて、水素メーザー原子時計や光格子時計など、さまざまな種類の高精度時計が運用されています。特に2015年に開発された光格子時計は、従来のセシウム原子時計の100倍以上の精度を持ち、約300億年間で1秒のずれしか生じないという驚異的な正確さを誇ります。この技術は将来的に「秒」の再定義にも使われる可能性があり、日本の時間計測技術は世界をリードする水準に達しています。
2004年には「標準時の通報を目的とした無線局の運用開始」が内閣府告示で公示され、NICTが日本標準時を維持・供給する公的な機関として正式に認められました。現在、NICTはインターネットによる時刻配信サービス(NTPサーバー)も運用しており、多くのコンピュータシステムやネットワーク機器がこれを利用して時刻同期を行っています。
2010年代に入ると、スマートフォンの普及により、多くの日本人が常に正確な時刻を持ち歩くようになりました。スマートフォンの時刻はGPS衛星や携帯電話基地局、インターネット経由のNTPサーバーなど、複数の経路で同期されており、一般的には数百ミリ秒以内の精度が保たれています。江戸時代には町の時の鐘を聞いて時刻を知っていた日本人が、いまや世界中どこにいても、ポケットの中に原子時計レベルの精度を持つ時計を携帯するようになったのです。
また、近年では「うるう秒」の扱いも注目されています。地球の自転速度が少しずつ遅くなっているため、世界協定時(UTC)には不定期に「うるう秒」が挿入され、天文時との同期が図られています。日本では、NICTがうるう秒の挿入を管理しており、直近では2016年12月31日23時59分59秒の後に「60秒」が挿入されました。しかし、このうるう秒はコンピュータシステムに様々な不具合を引き起こすことから、国際的にもその廃止が検討されており、将来的な日本標準時のあり方にも影響を与える可能性があります。
皆さんも考えてみてください。江戸時代の不定時法から原子時計による超高精度な時間測定まで、わずか150年ほどの間に日本の時間制度は劇的に変化しました。それは単なる技術の進歩ではなく、社会の近代化と国際化の過程でもあったのです。時計を見るたびに、日本の標準時が長い歴史と多くの人々の努力によって支えられていることを思い出してくださいね!