具体例2:フレーミング効果を用いた健康診断受診率改善
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同じ情報でも、提示の仕方(フレーミング)によって人々の反応は大きく変わります。健康診断の案内文を「受診しないと病気発見の機会を逃す可能性があります(損失フレーム)」と表現することで、「早期発見のチャンスです(利得フレーム)」という表現よりも受診率が向上する傾向があります。このフレーミング効果は行動経済学における重要な発見の一つであり、さまざまな公共政策や企業のコミュニケーション戦略に活用されています。
損失フレームの効果
人間は一般的に、何かを「得ること」よりも「失うこと」に対して強く反応します。これは「損失回避」と呼ばれる心理傾向で、ノーベル賞受賞者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーによって実証されています。健康診断において「病気の見逃しリスク」を強調することで、不安や危機感を喚起し、行動を促します。
損失回避の傾向は進化心理学的にも説明されており、生存のために危険(損失)を回避する能力が重要だったことから発達したと考えられています。カーネマンらの研究では、同じ量の獲得と損失では、損失によって生じる心理的な痛みは獲得による喜びの約2倍とされています。具体的には、1万円を失う不快感は1万円を得る喜びの約2倍の強さがあるという実験結果が得られています。この非対称性が、人間の意思決定に大きな影響を与えているのです。
実証例
東京都A区では2019年の特定健診の案内状を「健診を受けないと、あなたの健康リスクを見逃す可能性があります」という損失フレームに変更したところ、受診率が前年比15.3%向上し、63.7%に達しました。特に受診率が低かった30代男性において、前年比22.8%という顕著な改善が見られました。重要なのは、情報内容や検査内容は変えず、単に表現方法のみを変更したという点です。
英国の国民保健サービス(NHS)でも同様の取り組みが行われ、2018年の乳がん検診の案内状を「検診を受けないと早期発見の機会を逃し、治療が複雑になるリスクが3倍になります」という表現に変更したところ、受診率が従来の71.3%から79.5%へと8.2%増加しました。また、アメリカの大手保険会社ブルークロスでは、2020年の健康診断の案内に「あなたの健康を失うリスクを今すぐ減らしましょう」というメッセージを用いることで、従来の「健康を維持するチャンスです」というメッセージよりも18%高い反応率(42.3%対24.1%)を達成しています。
フレーミング効果は他の健康行動にも応用可能です。例えば、禁煙促進では「喫煙を続けると寿命が平均5.5年短くなり、晩年の生活の質が40%低下します」という損失フレームは、「禁煙すると平均5.5年長生きでき、晩年の生活の質が40%向上します」という利得フレームよりも効果的であることが示されています。実際、大阪府B市の禁煙プログラムでは、損失フレームを用いた啓発活動により、参加率が従来の17.2%から31.5%へと増加しました。また、インフルエンザワクチン接種においても「接種しないと65歳以上の方は重症化リスクが4.3倍高まります」という表現は、「接種すると65歳以上の方は77%の予防効果があります」という表現より、高齢者の接種率を12.6%高めたという結果が北海道C町の2021年の調査で確認されています。
興味深いことに、フレーミング効果の強さは文化によっても異なります。西洋の個人主義的な文化では「あなた自身の健康リスク」を強調するフレームが効果的である一方、日本を含む東アジアの集団主義的な文化では「あなたの健康状態が家族に与える負担」を強調するフレームがより効果的であるという研究結果もあります。2022年に京都大学と米国スタンフォード大学の共同研究では、日本人被験者は「健診を受けないと家族に心配や負担をかける可能性があります」というメッセージに対して、個人リスクを強調するメッセージより27.8%高い反応を示しました。このことから、対象となる集団の文化的背景を考慮したメッセージ設計が重要だと言えるでしょう。
導入のポイント
ターゲット層の特性に合わせたフレーミングの選択が重要です。リスク回避傾向の強い集団(例えば50代以上の男性や高学歴層)には損失フレームが特に効果的です。愛知県D市の調査では、50代男性には損失フレームが30.4%高い反応を示したのに対し、20代女性では差が8.7%に留まりました。また、年齢層や性別、過去の行動パターンなどの要因によって最適なフレーミングは異なるため、可能であればセグメント別にメッセージを調整することで効果を最大化できます。具体的には、過去3年間受診していない層には「このまま受診しないと、進行した疾患が見つかる確率が2.3倍になります」といった強い損失フレームが有効です。
倫理的配慮
過度な不安喚起は避け、事実に基づいた適切な表現を心がけるべきです。「必ず病気になる」など誇張された表現ではなく、「リスクが高まる」「可能性が上がる」などの科学的根拠に基づいた表現を用いるべきです。福岡県E大学の医療倫理研究では、過度に脅迫的なメッセージは短期的な効果はあっても、長期的には信頼関係を損ない「警告疲れ」を引き起こす危険性が指摘されています。特に健康関連の情報では、必要以上の恐怖を煽ることなく、「40代男性の糖尿病発症リスクは5年間で8.7%上昇」といった具体的データに基づいた正確な情報を提供することが信頼関係の構築において不可欠です。また、宗教的背景や個人の価値観に配慮し、特定の生活習慣を否定するような表現は避けるべきです。
併用する施策
リマインダーの送付や予約の簡素化など、他の行動科学的アプローチと組み合わせることで、より高い効果が期待できます。神奈川県F市では、損失フレームを用いた案内に加え、「あと3日で予約締切です」というデッドライン効果を活用したSMSリマインダーを送付することで、受診率が単独施策と比べて23.5%向上しました。また、デフォルト効果を活用した「ご都合が悪い場合のみご連絡ください」という自動予約システムの導入(埼玉県G社)、ソーシャルノームを利用した「あなたと同じ年代の82.3%の方が既に受診しています」といった表現の追加(兵庫県H町)、あるいはコミットメント効果を活用した「受診予定日をここに記入し、冷蔵庫に貼ってください」といった具体的な行動を促す仕掛け(千葉県I市)などが、受診率を15~30%向上させる効果を示しています。
フレーミング効果を最大限に活用するためには、対象者の心理特性や社会的背景を十分に理解することが前提となります。単に損失フレームを用いれば良いというわけではなく、具体的なターゲット層の特性、文化的背景、そして伝えるべき情報の性質に応じて、最適なフレーミングを選択することが成功の鍵となるでしょう。宮城県のJ健康保険組合では、対象者を6つのセグメントに分け、それぞれに最適化されたフレーミングを用いた案内を送付することで、全体の受診率を前年比38.2%向上させることに成功しました。また、四半期ごとの効果測定と表現の微調整といった継続的な改善のプロセスを組み込むことで、長期的により効果的なコミュニケーション戦略を構築することができます。2023年からは、AIを活用した個人別の最適フレーミング生成システムの実証実験も始まっており、今後さらなる進化が期待されます。