行動経済学を活用した政策立案:ナッジユニットの設置
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英国のBIT(Behavioural Insights Team、2010年設立)を先駆けとして、世界各国の政府や自治体に「ナッジユニット」が設置されています。英国BITは当初9人の小さなチームでしたが、現在は200人以上のスタッフを擁する組織に成長し、年間200以上のプロジェクトを実施しています。これらの専門チームは、税金の納付率向上(英国BITの介入により2.9億ポンドの追加税収を実現)、エネルギー消費削減(米国OPowerの家庭向けレポートで平均2.7%の削減効果)、健康行動促進(シンガポールの糖尿病スクリーニングで受診率12%向上)など様々な公共政策に行動経済学的知見を応用し、費用対効果の高い解決策を提供しています。米国のSocial and Behavioral Sciences Team(2015年オバマ政権下で設立、2017年に予算7000万ドルを確保)や、オーストラリアのBehavioural Economics Team(2016年設立、総理府直属で17の省庁と連携)、シンガポールの公共サービス部門内の行動洞察グループ(2012年設立、公務員50,000人へのトレーニングプログラムを展開)など、各国の特性に合わせた組織が次々と誕生しています。
ナッジユニットの特徴は、心理学と経済学の知見を融合させた科学的アプローチにあります。従来の政策が規制や経済的インセンティブに依存していたのに対し、ナッジユニットは人間の意思決定の特性を理解し、選択環境をデザインすることで望ましい行動を自然に促します。例えば、デフォルトオプションの設定変更(英国の年金自動加入制度で加入率が68%から87%に上昇)、情報提示の工夫(米国の栄養成分表示改善でカロリー認識が9.6%向上)、社会規範の活用(コスタリカの水使用量通知で消費が3.7〜5.6%減少)、コミットメント装置の導入(フィリピンの禁煙プログラムで成功率が15%向上)など、様々な手法を状況に応じて適用しています。これらの手法は強制力を持たないため、個人の自由を尊重しながら社会的に望ましい行動を増やせるという大きな利点があります。BITの研究によれば、行動経済学的介入のコスト対効果は従来型政策の22倍という結果も報告されています。
日本でも2017年に環境省がナッジユニットを設置し、2019年度予算3.5億円を確保して、エネルギー消費行動の変容や食品ロス削減などの分野で成果を上げています。具体的には、家庭の電力使用量を近隣世帯と比較した情報を提供することで、平均2~5%の省エネ効果が確認されました(対象30万世帯、年間CO2削減量約1.2万トン相当)。また、ごみ分別アプリの開発と利用促進によりリサイクル率が8.3%向上するなど、具体的な成果も出始めています。自治体レベルでも横浜市や大阪府など複数の地域で行動経済学を活用した施策が展開されています。横浜市では2018年に「よこはま行動デザインチーム」を設置し、国民健康保険料の納付率を前年比5.7%向上させることに成功しました。企業においても同様の専門組織を設置する動きが広がり、顧客体験の向上や従業員の行動変容に役立てられています。金融機関での資産形成促進(りそな銀行の自動積立プログラムで利用率24%増加)、保険会社での健康増進プログラム(住友生命の健康アプリで継続率が従来比36%上昇)、小売業での持続可能な消費促進(イオンのエコバッグ利用促進で使用率18%向上)など、幅広い分野で応用が進んでいます。
ナッジユニットの成功には、学際的な専門知識だけでなく、データ分析能力とデザイン思考が不可欠です。英国BITの組織構成を見ると、行動経済学者(30%)に加え、心理学者(15%)、データサイエンティスト(20%)、政策専門家(20%)、デザイナー(15%)という多様な専門家で構成されています。また、継続的な効果検証と改善のサイクルを回すことで、初期の施策から学び、より良い政策立案へとつなげています。例えば、オーストラリアのナッジユニットでは、全プロジェクトの85%でRCT(ランダム化比較試験)を実施し、科学的に効果を検証しています。このような科学的アプローチにより、政策立案の質と効率が飛躍的に向上することが期待されています。さらに、近年ではビッグデータやAI技術との組み合わせにより、よりパーソナライズされた介入や、リアルタイムでの行動予測に基づく施策も可能になりつつあります。ドイツのナッジユニットでは、機械学習を活用した税申告行動予測モデルにより、不正申告の検出率が17%向上したと報告されています。
一方で、ナッジユニットの設置には課題も存在します。まず、組織内での位置づけが重要です。カナダやデンマークのナッジユニットのように中央省庁に直接設置された組織は政策への影響力が大きい一方、外部委託型の組織は柔軟性がある反面、制度化までの道のりが長いことが指摘されています。政策立案に本質的な影響を与えるためには、十分な権限と予算、そして政策サイクルの早い段階から関与できる体制が必要となります。また、短期的な成果を求めるあまり、長期的な行動変容や制度設計の視点が失われないよう注意する必要もあります。英国BITの追跡調査によれば、初期効果が大きくても3年後に効果が50%以上減衰するケースが4割あることが報告されています。さらに、倫理的配慮も重要な論点です。ナッジは操作性が低く透明性の高い手法を選ぶべきであり、市民社会との対話を通じて社会的合意を形成することが望ましいでしょう。この点、オランダのナッジユニットは全プロジェクトで市民パネルの審査を経るプロセスを導入し、透明性と説明責任を確保しています。
将来的には、各国のナッジユニット間の国際連携が進み、成功事例やエビデンスの共有が活発化することが期待されます。すでに2018年に設立された「Global Nudge Network」には42カ国の97組織が参加し、年2回の国際会議と月次のウェビナーを通じて知見を共有しています。また、SDGsなどグローバルな課題に対して行動経済学的アプローチが果たす役割も拡大していくでしょう。世界銀行の試算によれば、SDGs達成に向けた行動経済学的介入は従来の開発アプローチに比べて平均13%の費用削減効果があるとされています。日本においては、高齢化社会における健康寿命延伸や防災行動の促進(避難訓練参加率を従来比38%向上させた熊本県の事例)、デジタル化の推進(マイナンバーカードの申請率を16.5%向上させた浜松市の事例)など、社会的課題解決に向けたナッジユニットの活躍の場はさらに広がっていくと考えられます。政策立案者、研究者、実務家の協働により、科学的根拠に基づく効果的な公共政策の実現が加速することでしょう。日本学術会議の提言(2020年)では、全省庁にナッジユニットの設置と2025年までに予算規模を10倍に拡大することが推奨されています。