第3章 日本人の正義観と逆転しない正義

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 私たちが生きる世界には、移ろいやすい価値観が溢れています。時と場所、そして個人の立場によって、「何が正しいか」の判断が揺らぐことは珍しくありません。しかし、その中で日本人が古くから抱き続けてきた「逆転しない正義」という概念は、利益や損得勘定、あるいは一時的な感情によってその判断が変わることのない、普遍的な道徳観を指します。これは、武士道における「義」の精神に深く根差しており、「正しいことは常に正しく、間違っていることは常に間違っている」という、いわば揺るぎない心の羅針盤のようなものでしょう。

 では、なぜこの「逆転しない正義」が、これほどまでに日本人の心に響き、独自の品格を形成してきたのでしょうか。前章で触れた八百万の神への信仰は、自然界のあらゆるものに敬意を払い、清らかさを尊び、調和を重んじる精神を育みました。この精神的な土壌こそが、私欲を排し、名誉を重んじ、そして何よりも「義」を優先する価値観を育む基盤となったのだと私は感じています。自分たちの存在を超えた大いなるものへの畏敬の念は、人間が自らの利益を超えて、より高次の規範に従うことの重要性を自然と教えてきたのではないでしょうか。つまり、特定の教義によって押し付けられたものではなく、暮らしと信仰の中で自然に培われた「心の規範」だったと言えるでしょう。

 歴史を紐解けば、この「逆転しない正義」の精神が、具体的な行動として表れる多くの例を見出すことができます。例えば、武士道における「義」は、主君への忠誠や約束の遵守といった、利益とは直接結びつかない行動原理を強く求めていました。たとえそれが自身の命を危険に晒す状況であっても、一度定めた道や信じた正義を貫くことに、彼らは最高の価値を見出したのです。有名な「赤穂浪士」の物語は、まさにそうした義の精神が、時を超えて語り継がれる具体例と言えるでしょう。彼らが私的な復讐を超えて、主君への義を貫いた行動は、当時の人々にとって、そして現代の私たちにとっても、損得では測れない正しさの象徴として映るのです。また、戦国時代にあっても、敵対する大名同士の間で交わされた約束が、互いの利益に反しても守られることがあったと聞きます。これは、単なる戦略的な駆け引きではなく、そこには「武士の義」という、損得を超えた価値観が存在した証ではないでしょうか。

 現代社会において、正義という言葉は、しばしば相対的なものとして語られます。ある人にとっての正義が、別の人にとっては不義となることも少なくありません。経済的な合理性や効率性が優先され、結果として「正義」の定義が状況に応じて都合よく解釈されることもあります。しかし、「逆転しない正義」は、そうした相対主義的なアプローチとは一線を画します。それは、まるで漆黒の闇夜を照らす北極星のように、いかなる状況下でもその光を失うことなく、人々が進むべき方向を示す普遍的な光なのです。この絶対的な正しさへの希求は、私個人の考えとしては、人間が本質的に持つ「良心」に基づいているのではないかと感じます。誰の目にも触れない場所であっても、あるいは誰からも評価されなくても、己の心に恥じることのない選択をする。この姿勢こそが、まさしく「逆転しない正義」を体現していると言えるでしょう。

 私自身の人生を振り返ってみても、この「逆転しない正義」の概念は、様々な判断の局面で重要な指針となってきました。時には短期的な利益や楽な道に誘惑されることもありますが、最終的に心に残るのは、やはり自分の信じる正しい道を歩んだという清々しさです。それは、誰も見ていないところでゴミを拾う行為や、約束をきちんと守るという些細なことの中に宿る品格であり、私たちが「清く、正しく、美しく」生きるための、日本人ならではの心の姿勢なのだと思います。この古くからの精神性は、変化の激しい現代社会においてこそ、私たち自身の心の軸を保ち、他者との信頼関係を築く上で、計り知れない価値を持つのではないでしょうか。