文化的偏見の可能性:異なる学習観に目を向けることの大切さ
Views: 0
私たちが学習というものを深く考える上で、「学び三態」や「勉強三態」といった枠組みは、確かに多くの気づきを与えてくれる、とても便利なツールだと言えるでしょうね。自分の学習スタイルを振り返ったり、どうすればもっと効果的に学べるかを考えたりする上で、きっと役立っているのではないでしょうか。
ただ、ふと立ち止まって考えてみると、この「学び」と「勉強」を区別する考え方の根底には、ひょっとしたら西洋文化、特に「個人が主体的に考え、行動すること」を重んじる価値観が、かなり強く反映されているのかもしれないな、と感じることがあります。つまり、「自分自身の力で考え、目標に向かって突き進むこと」を良しとする、そんな文化的な背景が色濃く出ている可能性がある、ということですね。
もし、この考え方が、あくまで特定の文化圏、例えば「個人の自立」や「自己実現」が強調されるような社会の視点から生まれたものだとすれば、私たちは少し注意が必要かもしれません。なぜなら、世界を見渡せば、学ぶことの意味や、教育のあり方、知識との向き合い方は、本当に多種多様だからです。この枠組みだけで全てを理解しようとすると、他の文化圏で育まれてきた豊かな学びの姿を見落としてしまう危険性も出てきてしまうでしょう。それは、まるで一枚の地図だけで、世界の全ての地域を旅しようとするようなもの。思わぬところで道に迷ってしまうかもしれません。
たとえば、私たちの暮らす東アジアの多くの国々には、古くから「みんなで協力し合い、助け合いながら成長していくこと」を大切にする文化が根付いています。学校でも、地域社会でも、家族の中でも、「私たちは一つのチーム」という意識が強く、個人は集団の中の一部として、その役割を果たすことを求められることが多いですね。周りの人との調和を重んじ、共同で課題に取り組む中で、知識や技術を身につけていく……。そんな学習の場面が、日常の中に溢れているのではないでしょうか。
このような文化の中では、「学び」という言葉が持つ意味合いも、西洋的な個人主義のそれとは、少し趣が異なるように感じられます。単に個人的な興味や探求心からくる「学び」だけでなく、あるいはテストの点数や資格取得といった具体的な目標達成のための「勉強」だけでもない、もっと広い意味での「成長」がそこに込められているのです。例えば、先生や先輩から教えられたことを忠実に守り、伝統的なやり方を繰り返し練習することで、初めて理解が深まることもあります。そこには、集団の一員として、知識や技術を次世代へと受け継いでいく、という大きな使命感すら感じられるかもしれません。個人がどれだけ努力したか、というよりも、集団の中でどれだけ貢献し、調和を保てたか、といった側面が評価されることも多いものです。
だからこそ、この「学び三態」や「勉強三態」といった考え方を使う際には、その背景にある文化的な視点に、ぜひとも意識を向けてほしいのです。それは、「どの文化が優れているか」という話では決してありません。ただ、「自分たちの常識」が、他の場所では「当たり前ではない」という、ごく自然な事実に気づくことが、まず第一歩だと思うのです。異なる文化圏では、「勉強」という計画的な知識習得の努力と、「学び」というもっと広い経験を通じた人間的な成長との間に、西洋ほど明確な境界線がないことも、決して珍しいことではないでしょう。
もし、私たちが本当に「世界中の誰にとっても役立つような、普遍的な学習のモデル」を築き上げたいと願うのであれば、特定の文化の枠組みだけに囚われていては、視野が狭まってしまうのは当然ですよね。さまざまな社会の中で、人々がどのように知識を獲得し、スキルを磨き、そして人間として成長していくのか——その多様な学びの形や、教育が果たすべき目的、先生と生徒の関係性のあり方、さらには「知識そのもの」がどのように捉えられているのかを、深く、そして丁寧に理解していく必要があります。文化的な背景から来る「眼鏡」を一度外して、多様な視点を取り入れることで、より多くの人々に寄り添い、真に価値のある学習の道を拓いていけるはずだと、私は心から信じています。

