第35章:未来を育てる人材投資:会社の学びの現状とこれから

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 日本企業の人材育成(社員の学びをサポートすること)への投資は、まだ世界に比べて少ないのが現状です。でも、これは嘆くことばかりではありません。むしろ、大きく成長するチャンスだと考え、積極的に学びの機会にお金をかけることが大切です。そうすることで、変化の速い今の時代を会社が生き抜き、さらに大きくなるためのカギになります。社員一人ひとりが持っている「すごい力」を最大限に引き出す「学び」は、もうただの費用ではありません。未来を確実にするための、一番大切な投資なのです。

 世界のデータを見ると、日本の会社が社員一人にかける年間教育費用は、欧米(アメリカやヨーロッパ)の主要な会社と比べてかなり少ないことがわかります。たとえば、アメリカの会社が一人あたり約150万円、ドイツが約120万円、フランスが約100万円、イギリスが約90万円ほどを人材育成に使っているのに対し、日本企業はたったの約40万円程度にとどまっています。この数字は、単に金額の差だけではありません。世界の会社が「人材」を会社の成長に欠かせない大切な「財産」として考え、その価値を高めるためにどんどん投資している中で、日本企業は少し遅れをとっている可能性を示しています。

 特に、日本経済を支える多くの中小企業(規模の小さい会社)では、この教育投資の差はもっとはっきりしています。大企業に比べてお金や人手が少ないため、「教育まで手が回らない」「目の前の仕事で精一杯」という声も聞かれます。しかし、このままでは、インターネットやAI(人工知能)の進化、グローバル化(国際化)の波に乗り遅れてしまい、世界で戦う力がなくなるだけでなく、国内の市場でも厳しい競争にさらされるでしょう。私たちは、この大切な問題に目を向け、具体的な対策を考える必要があります。

 なぜ学びへの投資が進まないのか?その背景にある問題

 日本企業が教育投資に積極的になれない背景には、いくつかの複雑な理由があります。まず、「短期的な業績ばかりを重視する経営の姿勢」が挙げられます。3ヶ月ごとの売上目標を達成することや、株主(会社の持ち主)への説明を優先するあまり、効果が出るまでに時間がかかる人材育成への投資が後回しになりがちです。すぐに結果が出にくい教育や研修は、予算を削られやすい傾向があります。例えば、新しい技術を学ぶための研修よりも、すぐ売上を増やすための営業会議の方が優先される、といった判断が現場ではよく見られます。

 次に、「教育の効果を測るのが難しいこと」も大きな壁です。研修を受けた社員がどれだけスキルアップし、それが具体的に会社の業績にどう貢献したのかを数字で示すのは簡単ではありません。投資したお金に対して、どれくらいの見返りがあるか(これを「投資対効果(ROI)」と言います)が見えにくいと感じるため、経営層(社長や役員など)は教育予算の承認にためらってしまうのです。「研修は受けたけど、結局何が変わったの?」という声が社内から聞こえてくるようでは、次の投資は期待できません。

 また、日本特有の「OJT(オー・ジェイ・ティー:On-the-Job Training、つまり、実際の仕事をしながら学ぶこと)中心の教育文化」も影響しています。現場で実務を通じてスキルを学ぶOJTはとても効果的な方法ですが、そればかりに頼りすぎると、体系的な(きっちり整理された)知識を学んだり、最新のスキルを身につけたりすることが疎かになる可能性があります。OJTは、すぐに現場で活躍できる人材を育てるのには向いていますが、未来の変化に対応するための広いスキルや、DX(ディー・エックス:デジタルトランスフォーメーション、つまりデジタル技術を使って会社を変革すること)を進めるのに不可欠な専門知識をすべて学ぶのには限界があります。例えば、AI(人工知能)の基本的な知識や、データ分析の方法をOJTだけで習得するのは難しいでしょう。

 さらに、終身雇用(定年まで一つの会社で働くこと)が当たり前だった時代とは異なり、「人材の流動化(人が会社を辞めたり入ったりすること)が進む中で、投資した人が別の会社に転職してしまうリスク」を心配する会社も少なくありません。せっかく時間とお金をかけて育てた社員が、そのスキルを活かしてライバル会社に移ってしまえば、投資が無駄になるという不安です。この不安が、教育投資へのやる気を削いでしまう悪い流れを生んでいます。特に、技術系の社員や専門職では、このリスクを強く感じる会社が多いようです。

 学びへの投資が足りないことで起こる深刻な問題と会社の未来

 教育投資が足りないと、会社の競争力に直接的かつ深刻な悪い影響が出ます。まず第一に、「社員のスキル不足」が目立つようになります。ビジネスの環境が急速に変わる中で、社員が新しい知識や技術を学べなければ、仕事の効率が下がったり、品質が悪くなったりします。例えば、営業の担当者が最新のCRM(シー・アール・エム:顧客関係管理)ツール(顧客情報を管理するシステム)を使いこなせなかったり、マーケティングの担当者がデータ分析に基づいた戦略を立てられなかったりすれば、お客様へのサービス提供も滞ってしまいます。

 次に、「新しいものを生み出す力(イノベーション力)の低下」は、会社全体の活力を奪います。社員が常に学び、新しい視点や知識を取り入れなければ、斬新なアイデアや画期的な製品・サービスは生まれにくくなります。これまでのやり方や考え方にこだわり、変化を恐れるような会社になってしまうこともあります。これは、まさに会社が成長を止めることを意味します。

 さらに、「国際競争力(世界で戦う力)の弱体化」は避けられません。海外の会社が積極的に教育投資を通じて優秀な人材を育て、次々と新しい技術やビジネスの仕組みを生み出している中で、日本企業だけが立ち止まっていれば、国際市場での存在感は薄れる一方です。例えば、海外では当たり前になっている多言語対応能力(色々な言語を話せる力)や異文化理解(異なる文化を理解する力)、高度な交渉術といったスキルが不足していると、海外でのビジネスチャンスを逃してしまう可能性が高まります。

 特に、「デジタル化が加速する現代において、新しい技術やツールを使いこなせない社員が増えると、会社全体の仕事の効率(生産性)が著しく低下します」。RPA(アール・ピー・エー:ロボットによる業務自動化)やAI(人工知能)などの導入が進む中で、それらを活用するスキルがなければ、仕事は非効率なままとなり、結果として会社の成長を妨げます。たとえば、経理部門がまだ手作業で書類を処理していたり、工場でIoT(アイ・オー・ティー:モノのインターネット)データ(様々な機械から得られる情報)を全く活用できていなかったりするケースは、まさに生産性低下の典型的な例です。

 そして最も恐ろしいのは、「成長する機会が少ないと感じた優秀な人材が会社を辞め、さらに会社の力が下がってしまうという悪い流れに陥る危険性」です。今の時代で働く人々は、お給料だけでなく、自分自身の成長やキャリアアップ(仕事での出世やスキルアップ)の機会を求めています。教育投資が少なく、スキルアップの機会が提供されない会社では、やる気のある社員ほど他の会社へと目を向けることになります。結果として、会社に残るのは現状維持を望む社員ばかりとなり、会社全体のやる気や新しいことに挑戦する力が下がり、さらに人材の流出が加速するという悪循環に陥ってしまうのです。

 中小企業がぶつかる教育投資の具体的な壁

 中小企業が教育投資を増やそうとするとき、大企業とは違う、もっと深刻な課題に直面します。これらの課題を深く理解することが、効果的な解決策を見つけるための第一歩です。

  • 予算の限り:大企業に比べて使えるお金が限られているため、高額な外部の研修や最新のオンライン学習サービスを導入するのが難しいのが現実です。研修費用だけでなく、研修期間中の社員のお給料や交通費なども大きな負担となることがあります。例えば、社員数20名の会社が一人あたり10万円の研修を導入するだけでも200万円の予算が必要となり、これは多くの中小企業にとって大きな出費です。
  • 専門の教育担当者がいない:多くの大企業には、人材開発の部署や研修の担当者がいますが、中小企業では総務の担当者や各部署の管理職が、他の仕事と兼任していることがほとんどです。そのため、専門的な知識や経験を持った担当者がおらず、効果的な研修プログラムを計画・運営するのが難しいのが現状です。研修の内容選びから、先生の手配、参加者への連絡、効果測定まで、すべてを少人数でこなすのは大変なことです。
  • 適切な研修プログラムが少ない:中小企業ならではのニーズに合った研修プログラムが、世の中に少ないことも課題です。大企業向けの一般的なプログラムでは、自社の規模や仕事内容に合わないことが多く、かといってオーダーメイド(特別に作ってもらう)の研修は費用が高くなりがちです。特に、珍しい専門スキルや、特定の業界に特化した内容の研修は、見つけること自体が困難です。
  • 仕事が忙しくて学ぶ時間がない:日々の仕事に追われ、社員が研修や自分で勉強するための時間を確保するのが難しいという声もよく聞かれます。少人数で多くの仕事をこなしている中小企業では、一人でも研修で抜けるだけでも現場に大きな負担がかかるため、社員も管理者も、なかなか勉強に踏み切れない状況があります。「研修に行きたいけど、休むと仕事が溜まるから…」と諦めてしまう社員も少なくありません。

 中小企業でもできる!未来への投資を加速させる解決策

 中小企業が抱える教育投資の課題は根深いものですが、「工夫次第」で多くの解決策が見つかります。大切なのは、「できない」と諦めるのではなく、「どうすればできるか」を考えることです。

  • 国の支援制度を徹底的に使う:国や地方自治体は、中小企業の人材育成を助けるための様々な助成金(お金の補助)や補助金制度を設けています。例えば、キャリアアップ助成金や人材開発支援助成金など、研修費用の一部を国が負担してくれる制度があります。これらの制度を積極的に活用することで、予算の制約を大幅に減らすことができます。情報をしっかり集めて、自社に合った制度を見つけることが重要です。
  • 業界団体や商工会議所と合同で研修をする:同じ業界の中小企業が集まって、一緒に研修を実施すれば、単独で研修を導入するよりも費用を抑えられます。しかも、その業界ならではのニーズに合った内容を学ぶことができます。商工会議所(地域の中小企業を支援する団体)や中小企業診断士協会(経営コンサルタントの団体)などが提供する研修プログラムも、気軽に参加できる選択肢の一つです。他の会社の事例を共有したり、繋がりを作ったりする良い点もあります。
  • オンライン学習サービスを導入する:時間や場所の制約を受けずに勉強できるオンライン学習は、仕事が忙しい中小企業にとって非常に有効な方法です。数千円から利用できる手頃なものから、専門性の高い有料サービスまで色々なプラットフォームがあります。社員が自分のペースで学べるため、仕事に支障をきたすことなくスキルアップを図ることが可能です。例えば、簿記の基礎やITリテラシー(情報技術を使いこなす力)など、一般的なスキルを学ぶのには非常に向いています。
  • 外部の先生(講師)を活用し、社内の先生を育てる:高い費用がかかるコンサルタントを常に雇うのは難しくても、単発のセミナーやワークショップ形式で外部の先生を呼ぶことは可能です。また、社内の経験豊富な社員や、特定分野に詳しい社員を「社内の先生」として育て、知識を共有し合うことを促進することも有効です。社内の先生による研修は、OJTでは伝えきれない整理された知識を共有し、会社全体の知恵を高めることにつながります。

 教育投資は、目先の費用と捉えるのではなく、会社の持続的な成長を支える「未来のための種まき」であるという考え方を持つことが何よりも重要です。人事労務の担当者の皆様には、この強い信念を持って経営層に教育投資の大切さを具体的に伝え、予算確保に向けて粘り強く働きかけることが期待されています。単に「研修が必要だ」と訴えるだけでなく、教育投資によって得られる具体的な成果、例えば「生産性の向上」「会社を辞める人の減少」「新しいビジネスチャンスの創出」といった投資対効果(ROI)を数字で示し、経営層が納得できるような説明を心がけましょう。

 人材育成なしに会社の成長はありません。この揺るぎない信念を経営層だけでなく、管理職、そして全社員へと浸透させることができれば、会社全体が学びたいという意欲に満ちた、活気ある環境へと変わっていくはずです。会社そのものを「学び続ける組織」へと変革し、社員一人ひとりが自分自身の可能性を信じ、生き生きと働ける未来を共に創り上げていきましょう。

 クリティカルポイント:教育投資を成功させるための大切なこと

 日本企業、特に中小企業における教育投資の不足は、単なる予算の問題だけではありません。経営層の意識、投資効果を見える化すること、そして終身雇用(定年まで働くこと)という考え方が薄れる中で、人材の流動化(人の入れ替わり)に対応することなど、複数の複雑な問題が絡み合って起きています。これらをまとめて解決するためには、短期的な視点(目先の利益ばかりを見る)から抜け出し、長期的な視点(未来を見据える)での人材戦略を立てることが大切です。そして、教育投資を「費用」ではなく「未来を創るための大切な財産」と位置づける経営の考え方に変えることが不可欠です。

 また、経営層が教育投資のリスク(転職のリスクなど)を過度に心配するのではなく、社員の成長が会社全体のレジリエンス(回復力、つまり困難から立ち直る力)と新しいアイデア(イノベーション)を生み出す源(もと)であるという「人財」(人を大切な財産として捉える考え方)への信頼を育むことが、本当の変化を進める上での最も重要な課題となるでしょう。

 反証・課題:教育投資の落とし穴と乗り越え方

  • 投資対効果(ROI)を測るのが難しい:教育投資の大切さは理解しつつも、その効果を数字で測り、具体的なROI(投資対効果)を経営層に示すことは、依然として難しい課題です。特に、ソフトスキル(コミュニケーション能力など)やリーダーシップ(人をまとめる力)といった分野の研修効果は、数字にしにくいのが現実です。これをどう乗り越え、納得できる形で投資効果を示すかが、予算を獲得するためのカギとなります。
  • 仕事が忙しい現場で学ぶ時間を確保すること:中小企業においては、日々の仕事に追われ、社員がまとまった勉強時間を確保することが物理的に難しいという状況がいつも起こっています。オンライン学習や短い時間の研修を導入しても、結局「忙しくて見られない・参加できない」という声がよく上がりがちです。仕事の負担を減らしつつ、学びを続けさせるための具体的な仕組みを作ることが、教育投資を実りのあるものにするための大きな課題です。
  • 人材が流出するリスクへの対応:教育投資を強化するほど、そのスキルを持った社員がより良い条件を求めて他の会社へ転職してしまうリスクは高まります。この「育てた人が流れてしまう」という経営層の心配をなくし、教育投資を進めるためには、お給料の仕組みを見直したり、キャリアパス(仕事の進路)を多様にしたり、社内での成長の機会をはっきりと示したりするなど、社員のやる気や愛着を高め、長く会社にいてもらうための総合的な人事戦略が不可欠です。

色々なニーズに対応し、一人ひとりに合わせること:社員一人ひとりのスキルレベル、キャリアの考え方、勉強の仕方は様々です。一律(みんな同じ)の研修プログラムでは、効果が限られてしまう可能性があります。一人ひとりのニーズに合った教育コンテンツを提供し、パーソナライズされた(個人に合わせた)学習体験を実現するためのリソース(予算、ツール、担当者)をどう確保するかが、今後の大きな課題となるでしょう。